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大阪地方裁判所 昭和54年(ワ)8089号 判決 1987年5月07日

原告

藤原篤樹

右訴訟代理人弁護士

西本徹

関戸一考

豊川義明

細見茂

被告

東亜ペイント株式会社

右代表者代表取締役

加藤俊夫

右訴訟代理人弁護士

門間進

角源三

主文

一  原告が被告に対して雇用契約上の従業員たる地位にあることを確認する。

二  被告は、原告に対し、金三一一三万九五六四円及び昭和六一年九月一日以降毎月二五日限り一か月金二三万九二三一円の割合による金員を支払え。

三  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、これを一〇分し、その一を原告の、その余を被告の各負担とする。

五  この判決は、第二項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  主文第一項と同旨。

2  被告は、原告に対し、三三一九万五一二五円及び昭和六一年九月一日以降毎月二五日限り一か月二三万九二三一円の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  (雇用契約の締結)

原告は、昭和四五年四月、被告と雇用契約を締結した。

2  (地位の否認)

被告は、昭和五〇年八月二〇日、原告を懲戒解雇したと主張し、現在に至るも原告の雇用契約上の従業員たる地位を争う。

3  (不法行為)

再抗弁欄記載のとおり、被告のなした右懲戒解雇は、原告の積極的な組合活動を嫌悪してなされた点において、労働組合法七条三号の支配介入に該当し、また、そこまでいえないとしても、後記業務命令の業務上の必要性の程度、原告及び後記組合の蒙る不利益の程度、原告に対する説得の不充分さなどの諸事情を総合すると、少なくとも懲戒解雇権の濫用に該当する違法な行為であり、仮にそうでないとしても、原告が従わなかつたとされる被告の静岡営業所への長期出張命令は実質的には配転命令と同視できるところ、被告は労使協議制度上の事前協議義務を尽くしておらず、組合役員の配転を極力避ける旨の覚書を実践していない点において、労働協約に違反し、また、職種を技術員とし職場を被告の大阪工場に限定した雇用契約にも違反しており、結局、右労働協約ないしは雇用契約に違反する前記業務命令違背を理由としてなされた右懲戒解雇も違法なものといわざるを得ない。

そして、原告は、被告の違法な右懲戒解雇行為により、職場から排除され、生活的利益を侵害された。

4(一)  (賃金及び一時金)

原告の昭和五〇年八月二一日以降の賃金及び一時金の内訳計算は、別紙〔A〕の別表(一)ないし(四)記載のとおりであり、その総額は同表(五)記載のとおりである。

なお、賃金は、毎年四月一日からベースアップしており、毎月二〇日締切二五日支払となつている。一時金については、被告は、毎年六月及び一二月に支払つており、平均妥結額を明示し、配分を一律、考課、スライドに三分し、通年一律五パーセント、考課三〇パーセント、スライド六五パーセントにしてきたが、原告は解雇されて就労を拒否されているので、スライド、考課分は平均によらざるを得ない。一時金について、昭和五〇年一二月分の計算例を示すと次のとおりである。

〔昭和五〇年一二月の一時金〕

平均妥結額 三一万六〇〇〇円(二・四三一月)

基準内賃金 一〇万八〇五〇円

従つて、

一律五パーセント分 一万五八〇〇円

(316000×0.05=15800)

考課三〇パーセント及びスライド六五パーセント分 二四万九五三六円

(108050×2.431×0.95=249536)

となり、右金額の合計は、二六万五三三六円となる。

(二)  (慰謝料及び弁護士費用)

原告は、第3項記載の不法行為に該当する被告の懲戒解雇行為により、昭和五〇年八月二一日以降職場から排除され、一生の中で最も貴重な社会生活上の時期を踏みにじられてきた。その精神的苦痛を慰謝するには、二〇〇万円をもつて相当とする。

また、その結果、原告は、自らの地位と仕事を回復すべく、やむなく地位保全等仮処分申請(事件番号 大阪地方裁判所昭和五〇年(ヨ)第三二一二号)及び本訴を提起せざるを得なくなり、代理人たる弁護士に依頼したものであるので、被告は右行為と相当因果関係の範囲内にある弁護士費用二〇〇万円も損害賠償すべきである。

5  (結論)

よつて、原告は、被告に対し、雇用契約にもとづき、原告が被告の従業員たる地位にあることの確認並びに昭和五〇年八月二一日以降昭和六一年八月三一日までの賃金・一時金の合計二九一九万五一二五円及び昭和六一年九月一日以降の賃金として毎月二五日限り一か月二三万九二三一円の割合による金員の各支払い、不法行為にもとづく損害賠償として慰謝料及び弁護士費用各二〇〇万円の支払いをそれぞれ求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1及び2の事実はいずれも認める。

2  同3の事実はいずれも否認する(なお再抗弁欄記載の事実に対する認否は、再抗弁に対する認否欄記載のとおりである。)。

3  同4(一)の事実は、賃金及び一時金の内訳計算が別紙〔B〕の第一表ないし第四表記載のとおりであり、その総額は同第五表記載のとおりであつて、これに反する点は否認するが、その余の点は認める。

4  同4(二)の事実はいずれも否認する。

三  抗弁

1  (懲戒解雇の意思表示)

被告は、原告に対し、昭和五〇年二月一八日、同月二四日ないし二五日に被告の静岡営業所へ六か月間長期出張するようにとの業務命令を発し、同年四月二五日には赴任日を同年五月六日までと変更して伝えたのにもかかわらず、原告は右命令に従わなかつたため、同年八月二〇日、被告の就業規則六八条六号を適用して原告を懲戒解雇する旨の意思表示(以下「本件解雇」という。)をなした(なお、被告の就業規則六八条の規定は、別紙〔C〕のとおりである。)。

2  (本件長期出張命令の業務上の必要性)

(一) 被告大阪化成品工場爆発に伴う日信化学工業株式会社との業務提携及び販売計画の作成

被告は、従前より、塗料の他に化成品事業部において酢酸ビニール系エマルジョン、アクリル系エマルジョン、塩ビ合板用接着剤、アクリルゴムを生産し、昭和四七年上期(昭和四七年四月ないし同年九月の間)には、右四品種を月間八〇〇トンないし一〇〇〇トンぐらい製造販売していたが、昭和四八年一月二〇日、被告の唯一の化成品工場であつた大阪工場内化成品工場で爆発事故が発生したため、化成品の製造は全面的に停止するという事態となつた。被告は、当初化成品部門を被告独自で再建することを決定し、再建までの間は同業他社から化成品の製品を購入し、或いは、生産委託して現状をできるだけ維持していくこととしたが、当時の石油危機に起因する経済情勢下で、最小限の営業活動を余儀なくされ、多くの化成品のコンスタントユーザーとの取引を中断せざるを得なかつた。このような状況の中で、大阪工場再開に対する地域住民の反対、工場立地・消防・公害規制に関する諸法の規制の関係官庁からの遵守要求、右工場所在地の準工業地域への変更という事態が生じ、新たな化成品工場の代替用地も見つからなかつたことから、被告は、当面独自の化成品部門の再建を断念せざるを得なくなり、化成品部門の将来性や化成品が付加価値の高い商品であること、被告製品の品質の優秀性と特殊性にもとづくユーザーからの要請等諸般の事情を総合検討した結果、昭和四九年三月に至り、日信化学工業株式会社(以下「日信化学」という。)との業務提携により化成品部門を継続することを決定した。右業務提携の内容は、日信化学が武生工場で生産品種を四品種に限定してその生産を担当し、被告は生産技術の提供と販売を担当する、その月間生産量は被告の社内消費分を一一五トンとし、販売分を三二八トンとする、そしてその合計四四三トンを最低数量とするというものであり、その数量に関し、品種バランスが崩れると製造・販売に大きな支障をきたし、品種別販売数量を達成しないと両社の損益計算上業務提携の継続が危ぶまれるばかりでなく、右最低数量を下廻ると損益分岐点を大きく下回ることとなり被告の化成品事業部そのものの存続をも危うくするものであつた。

そこで、被告は、右最低数量の販売を完遂するため、昭和四九年六月、化成品販売戦力強化プロジェクトチームを発足させ、昭和五〇年三月の日信化学武生工場の新工場完成に符合させるべく、品種別・地域別の販売予測、販売体制の確立等諸対策を三回にわたる会議で決定したが、その際、被告の社内消費分を除く販売分三二八トンの具体的方法について協議し、品種別・地域別の過去の実績と爆発事故後の実績とを検討したところ、従前より化成品専任担当者の在籍する東京・大阪両化成品課及び名古屋営業所の三地区を主体として営業活動を展開すれば、爆発事故前の実績からみて右数量は十分販売可能と判断した。そして、東京・大阪両化成品課を補強するため昭和四九年九月から各一名の増員を右プロジェクト会議で決定したが、右販売計画を具体的にすすめてゆく中で、やはり爆発事故の影響は大きく旧ユーザーへの販売の回復は遅々としてすすまず、また、右販売計画の立案当初では需要の回復を見込んでいたのにもかかわらず、総需要抑制策のあおりを受けて接着剤業界の生産量も前年比二〇パーセント減となり、翌五〇年度の業界の予想も横ばいとの見方が強くなつた。被告は、昭和四九年九月を過ぎても景気回復の兆しがなく、東京・大阪・名古屋の三地区の販売伸張率も思わしくなかつたことから、三二八トンの数量達成に対しての不安感が化成品事業部内部に強くなり、短期的に販売量確保を図るために新たな第四の市場として静岡地区の開発を検討するに至つた。

(二) 静岡地区を重点地区に選んだ理由

被告において、静岡営業所は爆発事故以前の昭和四七年上期には大阪・東京両化成品課、及び名古屋営業所に次ぐ第四位の化成品売上実績を上げていたが、爆発事故によりその売上高は皆無となつていた。その理由は、静岡地区には日本農林規格の認定工場等特殊建材メーカーの工場が集中して存在し、酢酸ビニール系・塩化ビニール系接着剤の有力市場であるところ、被告も古くから大阪化成品技術課及び東京化成品課が売り込みをかけ、大口のユーザーである富士合板、富士見化成、浜田産業、磯谷合板、坂政合板の各株式会社(以下、株式会社を省略する。)を得意先として製品を納入していたが、爆発事故後の他社製品購入・委託生産による調達量が、石油危機に起因する原材料の払底をきたしたために、当初でも自社生産時の三分の一程度しか賄えなかつたものが、更に昭和四八年夏以降には五分の一以下にまで減少するに至つたため、全社的判断にもとづく将来性、重要性、回復の可能性を考慮して納入先の選定を検討した結果、最大規模の大手ユーザーとの取引継続を優先せざるを得ないとの結論に達したためである。その結果、静岡地区での販売の中心である塩ビ合板用接着剤に関しては、東京のボード株式会社、大阪の大建工業株式会社の二社以外には納入できず、プリント合板用接着剤に関しては全ユーザーに全く納入できない状態であつた。また、特殊合板メーカーにとつて原材料は、合板、接着剤、塩ビシートもしくはプリント紙の三要素であるが、その品質が製品を左右するため、メーカーは接着剤の性能についても品質・用途・機械特性等非常に厳しい要請をするので、被告は従来から各ユーザー毎に技術的打合わせを行い、各ユーザーの要請に合致するオーダーメイド品を供給してきたものであるが、かかるオーダーメイド品には同じような類型の製品が少く、爆発事故後各ユーザーへの技術的対応ができなくなつたことも、被告が静岡地区での売上高を皆無にせざるを得なくなつた理由の一つである。

しかしながら、被告は、近い将来再び自社生産が可能となつたときには、静岡地区への納品再開も可能となると確信していたため、東京化成品課の芳川喜徳(以下「芳川」という。)は供給停止後も静岡地区のユーザーへの定期出張訪問を継続して実施していたところ、浜田木材においては、当時、プリント合板用接着剤を他社から購入して使用していたが、表面の仕上りの状態の悪さが大きな問題となつており、芳川が訪問時に要請を受け種々テーブルテストを実施し、それにもとづいて製品見本を選択提出し、現場テスト段階にまで至り、昭和四九年一二月には被告の酢酸ビニール系接着剤納入の目途が立つような状態となり、また富士合板においても、当時、同社は塩ビクルミ貼り合板の製造を考慮中のため是非被告に相談に乗つてほしいとの訪問要請を受け、更には、同社が塩ビ合板のモデルチェンジをすべく考慮中であることも判明してきた。このように芳川の静岡地区出張による地道な営業活動により、静岡地区では販路再開・拡大の前兆が明確にでてきていたうえ、当時、業界としてはプリント合板用の低ホルマリン接着剤及び塩ビ合板用のクルミ貼り・ラミネーター法・Vカット法等の新製品、デザインの改良(印刷・エンボシング)等の要求があつたため、化成品製造各社とも競つて新製品の開発を研究していたところ、幸い被告においては、新製品及びデザインの改良等に対処すべき接着剤の研究は爆発事故以前に概ねできあがつていたので、右研究成果をもとに静岡地区の他の旧ユーザーの失地回復も見込まれる状況になつていた。そこで、東京・大阪・名古屋の三地区のみでは、前記三二八トンの計画数量の販売達成が危うくなつた結果として、復活への明るい見通しのある静岡地区に増員を図ることが、短期的に販売量増大の有効な手段であると判断され、昭和四九年一一月東京化成品課から静岡営業所への増員要請が出されるに至つたのである。

(三) セールスエンジニア常駐の必要性

被告におけるセールスエンジニアとは、当人の有する技術知識をふまえて、ユーザーへの技術サービスを中心として営業活動を行う営業技術員のことであるが、その具体的な業務内容は、業界の動向・市況・新技術・新製品等の情報交換、性能試験や設備改良の実施、使用条件検討に際しての技術協力、クレーム処理等であつて、要はユーザーのニーズを掘り起こし、いかにその信頼に応え、販売拡大に寄与するかということであるが、各ユーザーに前記オーダーメイド品を納入するためには、品質説明、資料提供、コストの概略、納品ルート等の営業的な詰めを済ましてから、ユーザーに製品見本を持つて行き、実験をして品質性能の詰めを行い、最後にラインテストに合格してから、販売店を交えて納入方法、数量、最終価格等を詰める必要があるところ、製品見本の提供からラインテストに至るまでの技術的詰めをなすにあたつては、接着剤の価格問題だけではなく、その塗布量と接着強度や乾燥性との関係、コンベアスピードとの関係、合板の大きさや接着される紙・塩ビシートの材質と使用する接着剤の品質・性能との関係など技術的な問題が中心となるのであつて、更には、ラインテストを終了して被告の製品が採用されてからもユーザーからのクレーム処理の必要性があるのであつて、静岡地区にはユーザーの右技術上の要請に応えるため、たんなる営業員の派遣ではなく、セールスエンジニアの派遣が必要であると判断された。

そして、当時、被告においては、前記のとおり、静岡地区で短期間に販売量を増大させるように要請されており、各ユーザーからの多種多様なニーズを的確にとらえ、それに正確に符合する処置を講ずるには、セールスエンジニアの常駐の方が出張よりも望ましく、前記のとおり、芳川の出張により浜田木材、富士合板といつた具体的な目標が定まり、売り上げ増大まであと一歩という状況に達していた中で、常駐はまさに効果絶大と判断された。

(四) 原告を選任した経緯

被告は、塗料の製造販売と化成品の製造販売を行つているが、塗料と化成品とではその製造方法や用途が非常に異なつており、製品に対する技術知識やその販売方法も異なつているので、化成品部門は社内的にも専門分野という感じが強く、化成品事業部内での技術と営業との交流は常時行われていたが、塗料部門との交流は皆無に等しく、静岡営業所駐在員選任にあたつても化成品部門内において選任するのが当然であつた。

そして、化成品技術課から誰れを選任するかについて種々検討の結果、原告以外に適任者はないとの結論に達した。即ち、当時同課には、黒田純夫課長(以下「黒田課長」という。)以下課員として内広英雄、木村秀樹、守徹郎、長谷川雄一、馬場弘、原告が在籍していたが、内広については化成品生産及び技術全部についてのベテランであつて、日信化学の本格的稼働にあたつて生産技術の指導のため派遣することが予め決まつていた。木村、馬場は従来アクリルゴム関係を担当しており、守は従来からウレタン樹脂関係にたずさわつており当時皮革塗料プロジェクトの一員であつたので、右三名とも静岡地区の接着剤販売には適しなかつた。長谷川については、当時同人が開発した塗料用結合剤の改良とその商品化のプロジェクトチームの一員として昭和四九年一〇月からこれに従事しており、また同人は、昭和四五年から昭和四九年三月まで大阪化成品課に転出していて帰つてきたばかりであつた。そうすると、残るのは原告のみであるが、原告は昭和四五年三月同志社大学工学部工業化学科を卒業し、同年四月に被告に入社した後、同年九月以降化成品事業部で酢酸ビニール系エマルジョン、塩ビ合板用接着剤、アクリル系エマルジョンの三品種の化成品の開発応用及び技術サービスの補助業務に従事してきており、静岡地区の要請に合致しているばかりか、原告は入社後五年に近く、将来の技術系の幹部として大成させるためにも一度営業経験をさせる必要があるということもあつて、原告が選任されるに至つたものである。ところで、原告は当時東亜ペイント労働組合(以下「組合」という。)大阪工場支部の執行委員であつたことから、被告は次善の策として当時他課に在籍する化成品技術の出身者を検討したところ、大阪技術部の重防蝕プロジェクトチームの一員である上原ら及び東京技術部アルミニューム型材塗装法・塗料開発のプロジェクトチームの一員である高瀬和三は、いずれも被告の重点開発部門のチームの中堅社員であり、更にはそれぞれ主事一級(課長代理級)、主事二級(係長級)であつて、静岡営業所長主事二級(係長級)の山崎永次の監督下に置くことは不適当であり、大阪技術部道路技術課にいた土田隆男及び大阪技術部エポキシコーティングシステム研究開発プロジェクトチームの一員である大沢幹夫は、いずれも工業高校卒で、昭和四七年四月から昭和四八年一月の爆発事故までの間化成品の技術補助業務にたずさわつた程度でその経歴からみて静岡地区の駐在員とすることはやはり不適当であり、他に適任者はいなかつた。なお、芳川については、昭和四九年当初より東京化成品課から静岡地区に出張していたが、同人は、東京域における販売計画数量の達成及び昭和五〇年三月の日信化学の稼働に伴う製品切り替えのための技術サービスのため東京化成品課に必要不可欠な存在であつたので静岡地区に常駐させることはできなかつたものである。

(五) 配転から長期出張命令への変更理由

被告は、黒田課長から原告に対し、昭和四九年一二月一七日、静岡営業所への配転の意向打診を行い、以後説得を続けたが、原告が拒否の態度を堅持するので、とにかく前記業務上の必要性は絶対であるので長期出張でもやむを得ないと判断して、第1項記載の長期出張命令を発したものである。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1の事実は認める(但し、本件長期出張命令が実質的には配転命令とみるべきことについては、再抗弁欄第3項記載のとおりである。)。

2  同2の本件出張命令に業務上の必要性があつたとの事実は否認する。静岡営業所へ人員を派遣する必要性はそもそも存在せず、まして技術者をセールスエンジニアとして常駐させる必要性は全くなかつたものである。

(一) 同(一)のうち、被告が、従前より塗料の他に化成品事業部において酢酸ビニール系エマルジョン、塩ビ合板用接着剤等エチレン酢ビエマルジョンなどを生産していたこと、昭和四八年一月二〇日大阪工場内化成品工場で爆発事故が発生し、化成品の製造が全面的に停止したこと、被告は当初化成品部門を独自で再建することを決定し、再建までの間は同業他社から化成品の製品を購入し、また生産委託してユーザーに供給していたが、再建が適わなかつたことから日信化学と業務提携し、同社で生産する月間数量のうち被告の社内消費分一一五トンを除いた三二八トンの販売計画を立てるため、昭和四九年六月化成品販売戦力強化プロジェクトチームを発足させたこと、そして、東京・大阪両化成品課を補強するため各一名の増員を右プロジェクト会議で決定したことは、いずれも認める。被告の化成品部門の製品のうち、アクリルゴムを除いた接着剤が付加価値の高い商品で、品質も優秀で特殊性があり、将来性があること、日信化学との業務提携による合計四四三トンの月間生産量に関し、品種バランスが崩れると製造・販売に大きな支障をきたし、品種別販売数量を達成しないと同社と被告の両社の損益計算上業務提携の継続が危ぶまれ、右数量を下廻ると被告の化成品部門の存続そのものも危ぶまれるものであつたこと、前記プロジェクトチームで協議した三二八トンの具体的な販売計画が、東京・大阪両化成品課及び名古屋営業所の三地区を念頭において立てられたものであること、右計画立案の当初においては需要の回復を見込んでいたこと、昭和四九年九月以降の販売伸張率が思わしくなく、三二八トンの数量達成に対する不安感が被告の化成品事業部内部に強くなり、短期的に販売量を確保するために新たな第四の市場として静岡地区が検討されるに至つたことは、いずれも否認する。

日信化学との業務提携による月間生産量四四三トンの数量は、被告主張のような絶対的なものではなく、日信化学が右業務提携上の生産を開始する昭和五〇年四月から徐々にその目標に到達させればよいという程度のものであつた。そして、前記プロジェクトチームが立てた販売計画は、昭和四九年当初より実施されていた総需要抑制策による景気後退を充分考慮に入れたうえで、前記三地区のみならず静岡営業所等他の各地区を含めて立案されたものであり、被告の化成品売上げ実績が昭和四九年六月・七月を底として、以後順調にのびていたこと、その中で従来から被告の中で化成品の売上高がずば抜けて大きく、爆発事故による売上げ激減の影響を蒙つた東京・大阪両化成品課に同年一〇月各一名の増員がはかられたことなどを考え合わせると、景気の回復に対する立案当初の見込みにくるいが生じ、販売伸張率も思わしくなかつたことから、当時急に静岡地区を新たな市場として検討するに至つたものとは、到底考えられない。

(二) 同(二)のうち、特殊合板メーカーが接着剤に関し、品質・用途・機械特性等非常に厳しい要請をするので、被告は従来から各ユーザー毎に技術的打合わせを行い、各ユーザーの要請に合致するオーダーメイド品を供給してきたこと、芳川の静岡営業所への出張により、当時静岡地区で販路再開・拡大の前兆が明確になつていたことはいずれも否認し、その余の点は全て知らない。

被告が、従前静岡地区で販売実績をもつていたのは、木工用・紙工用の一般接着剤であつて、被告の主張する塩ビ合板用接着剤は僅かしかなく、プリント合板用接着剤は全くなかつた。また被告が従来の得意先として主張する富士合板、富士見化成、浜田産業、磯谷合板、坂政合板は、会社の規模からいつても大手とはいえず、被告主張の取引量(富士合板 月平均二二・二トン、富士見化成 同二〇トン、浜田産業 同八・三トン、但し、磯谷合板と坂政合板は主張なし)からみても、到底大口ユーザーとはいえない。そして、被告主張のように、被告が爆発事故後、他のユーザーを優先させて静岡地区のユーザーへの供給を停止したというのであれば、被告においては、もともと静岡地区の位置づけが低かつたものとみることができる。ところで、接着剤は、昭和四〇年代の前半には、主原料、組成などが確立し、どのメーカーも容易に製造ができ、そのため同業他社は一五〇社を数えるまでになり、昭和四九年当時、品質を落とさずにいかに価格を下げるかを研究している段階にあつたのであつて、どのメーカーも同じような製品を製造していた。

(三) 同(三)は、いずれも否認する。

製品を販売する場合、営業員は、売り込み先のユーザーがどのメーカーの商品かを把握し、もしユーザーの現使用商品に問題がなければ価格を下げて売り込みを図り、問題があれば濃度とか粘度の指摘をしサンプルの持参の話をしたうえで、技術員に伝えてユーザーの要請に合致したサンプルを作つてもらい、それを持参してユーザーのもとに赴き、テーブルテストを経てからラインテストを行うが、ラインテストの際、とくにユーザーから要望があれば、例外的に技術員が立会うこともあるが、それ以外は全部営業員がこなしている実情にある。被告の主張する技術サービスは、ほとんど営業員が行つているのであつて、技術者がユーザーへ出張する必要性が生ずるのは、ユーザーの要望によるラインテストへの立会い、営業員で処理できないクレーム処理に限定されている。従つて、本件においても、静岡営業所へ技術者をセールスエンジニアとして派遣する必要性はなかつたものである。

(四) 同(四)のうち、被告が塗料と化成品の製造販売を行つていること、塗料と化成品とではその製造方法や用途が異なつていること、当時化成品技術課には、黒田課長以下内広、木村、守、長谷川、馬場、原告が在籍していたこと、内広、木村、守、長谷川、馬場の当時の担当職務の内容が概ね被告主張のとおりであること、原告が昭和四五年三月同志社大学工学部工業化学科を卒業し、同年四月に被告に入社した後、同年九月以降化成品事業部で研究に従事してきたこと、原告が当時組合大阪工場支部の執行委員であつたこと、芳川が東京化成品課に在籍していたことは、いずれも認める。被告において、化成品部門が社内的にも専門分野との感じの強いこと、静岡営業所への常駐者としては原告以外には適任者がなかつたこと、原告を将来の技術系の幹部として大成させるために営業経験をさせる必要性があつたことは、いずれも否認する。

被告が、静岡地区において拡販可能と考えていた製品は、木工用・紙工用の接着剤であり、塩ビ合板用・プリント合板用の接着剤でなかつたことは、前記のとおりである。そして、原告が、入社後当時まで手がけてきたのも、主に木工用・紙工用接着剤であつて、プリント合板用接着剤は全く担当せず、塩ビ合板用接着剤は、爆発事故人手不足の中で要請されて関与した程度であつた。また、原告に対する配転ないし長期出張命令は、当時の化成品技術課の技術体制を無視したもので極めて異例であつた。即ち、化成品技術課から同営業課への配転はそれまでに何回か行われたが、その配転先は全て大阪か東京の営業課のいずれかであつて、地方の営業所への単独配転や長期出張が行われたことはなく、また、当時、化成品技術課は、最盛時の一三名から七名に減員されており、その中で内広が翌年より日信化学への技術指導に派遣されることが決つており、守と長谷川が他のプロジェクトチームでの活動に従事していたため極めて手薄で、実験要員にも事欠くような状態であつたのにもかかわらず、これを無視してなされたものである。仮に、静岡地区で化成品の売上げ実績を短期的に確保する必要性があつたというのであれば、東京化成品課から同地区へ出張していた芳川が、実情にも通じ、最適任であつたはずである。

(五) 同(五)のうち、黒田課長が原告に対し、昭和四九年一二月一七日、静岡営業所への配転を内示したこと、抗弁欄第1項記載のとおり、被告が本件長期出張命令を発令したことは、いずれも認めるが、その余の点は否認する。

五  再抗弁

1  (不当労働行為)

被告は、従来より組合の一部幹部と一体となつて原告の組合活動を敵視してきたものであるが、本件解雇は、被告が爆発事故後の原告の組合活動を嫌悪し、これを唯一の理由としてなしたものであり、労働組合法七条三号の支配介入に該当する無効なものである。

原告の組合活動とこれに対する被告及び組合の一部幹部の対応は、以下のとおりである。

(一) 青年婦人部長当時

原告は、昭和四五年八月に組合員資格を得ると同時に青年婦人部(以下「青婦部」という。)で活動し、翌昭和四六年七月から昭和四七年六月まで、組合の大阪事務所支部と大阪工場支部を含む西部青婦部部長をつとめた。なお、当時西部青婦部は一八〇名余りを擁しており、大阪域の組合員の約四割を占めていた。

(1) アンケート実施に対する規制問題

原告は、青婦部として、昭和四六年一〇月、当時の組合員の意識状況を調査するため、政治社会情勢に関するアンケートを実施したところ、被告の人事部から、就業時間中に許可なく配布することは認められないとして突然中止を命じられた。被告は、それまで就業時間中の組合機関誌、ビラ等の配布を許しており、右アンケート禁止は、沖縄返還問題・学生運動問題・政党支持問題等を含んだその内容を嫌悪したからであつた。他方、これに呼応して当時の組合大阪工場支部長高崎勝生(以下「高崎」という。)は、会社から言われていると称してアンケートの集約結果中政治問題にかかわる部分の削除を原告に求めた。

(2) 労働歌・横断幕等の規制問題

青婦部員は、昭和四七年、春闘を盛り上げるために昼休み中食堂前広場において労働歌を合唱していたところ、緒方元広大阪工場次長(以下「緒方次長」という。)から、原告に対し、「無許可だからこの場所で歌うのをやめろ。会議室でやれ。」と命じられ、許可申請をしてもこれを認められなかつた。原告らは、高崎支部長に対しても許可を得ることができるように申し入れたが、これも拒否された。

さらに、青婦部の決起集会の際にその要求を横断幕にして会場である食堂に張り出そうとしたところ、高崎支部長から「会社を刺激するからやめろ。」と制止され、闘争時に門前で組合旗を掲揚しはち巻きをしてビラまきをしたい旨の要求をしても、やはり高崎支部長から会社を刺激するという理由で拒否された。

(3) 柴田助教授の入構拒否問題

青婦部は、昭和四七年、青婦部の行事として婦人の母性保護問題の講師として大阪市立大学の柴田悦子助教授を招こうとしたところ、被告は、講演の直前になつて、「この人物は、会社の中に入れることのできない人物としてリストにあがつている。」として、その入構を拒否した。

なお、それまでにも、高崎は、原告の前任者であつた青婦部部長上田俊夫(以下「上田」という。)が青婦部員の研修会に必要な費用の支出を求めたところ、「民青の講師に金は出せない。」として拒否し、「上田は民青だ。」などと言つたりしたことがあつた。

(二) 職場委員兼大会代議員当時

原告は、何事も一人前に取り扱つてもらえない青婦部の活動にもの足りなくなつて、昭和四七年七月、各職場から組合員二〇名に一名の割合により選出される職場委員に立候補して信任され、大会代議員も兼務した。

昭和四八年一月二〇日、大阪化成品工場で爆発事故が発生し、同月二五日には爆発した製品を開発した主任技術者西村秀二が一家心中するという事件も引き続いて起つた。ところで、右爆発事故の刑事責任に関しては、反応釜の作業を担当していた入江敏哉の操作ミスとして同人に罰金二〇万円の略式命令が科せられたが、右事故の根本原因は、被告の安全性を無視した生産第一主義にあり、被告はその責任を一労働者に転嫁し、入江の罰金を肩代わりして支払い強引に同人に正式裁判を断念させた。しかし、被告は、右事故を反省しないままに、事故の翌日に臨時生産体制を発表し、それまでの生産を維持するために、大阪工場で働いていた現業従業員に対して、被告の茨城工場、東京工場、子会社の伊賀塗料株式会社に三か月の長期出張ないし出向を提案し引き続いて配転を命ずるなどした。そのような中で、原告は、右事故の原因・責任の所在を明らかにしない被告の姿勢に不満をもち、当時組合大阪工場支部書記長上田が事実上責任者となつていた組合の事故調査委員会に技術者として協力したほか、職場内外において安全の確立、責任の明確化を要求し、また、大阪工場の全面再建運動を行つた。その結果、原告の所属する大阪工場の職場委員会では、大阪工場で全員が雇用されるように配転を伴う再建には反対である旨の決議がなされるに至つたが、組合の中央は、被告の要求を飲んで、配転やむなしという姿勢となり、条件闘争に移行することとなつた。組合の中央は、家庭の事情等で配転に応じられない組合員を守る旨言明していたにもかかわらず、これを守らなかつたので、最終的には一〇余名の退職者が出た。原告、上田、吉田暢(以下「吉田」という。)らは、被告の責任を明らかにすること、被災者への補償を完全に行うこと、安全体制を確立すること、大阪工場を全面再建することなどを要求事項とするために組合員の自宅訪問活動を実施し、昭和四八年四月に茨城工場への配転問題が発生してからは配転予定者宅をも回つてその要求を組合に反映させようとした。

(三) 第一期執行委員兼情宣部長当時

原告は、職場委員としての活動を通して、そこでの限界を感じ、昭和四八年七月、組合の大阪工場支部執行委員に立候補して当選し、かつ同支部の情宣部長に信任された。また、その当時の役員選挙では、上田も同支部副支部長に選出された。

(1) 情宣ニュースの検閲問題

原告は、情宣部長に就任するや、従前の組合大阪工場支部の情宣活動の不活発さを補うために、ニュースの定例化をはかり、内容面でも組合員の要求や声を反映し、教宣面にも重点をおいた紙面作りを行つた。その結果、従前と比較して質量ともに飛躍的に情宣活動が活発化したが、同時に、原告は、爆発事故の責任問題、被災者の完全救済問題、茨城工場への配転問題をも取り上げて活動した。

そのような中で、被告はまだ爆発事故の責任が問われているときであつたにもかかわらず、昭和四八年七月四日、大阪工場の工業品技術課でボヤ騒ぎを起こし、同年一〇月にも茨城工場でボヤ騒ぎを起こしたので、原告は、被告の安全管理体制が杜撰であるとして直ちに右茨城工場の件をニュースに取り上げ、組合員に流した。これに対し、被告は、当時茨城工場への配転を多くの従業員に命じている最中であり、その理由に同工場は一番新しく安全である旨主張していたこともあつて、右のボヤ騒ぎの事実をかくすのに必死になつていたので、これに呼応して高崎支部長は、原告に対し、「なんで出したか。」と詰問し、以後のニュースの発行は事前に同人の検閲を受けてからにしなければならなくした。その結果、それ以後の爆発事故の責任問題、被災者の後遺症の問題などの内容は全て差し止められた。

なお、これに先立つて、昭和四八年八月の第一〇回組合大会で爆発事故の責任問題などを取り上げた吉田発言が大会議事録から抹消されるという事態も起こつていた。

(2) 転勤予定者訪問活動敵視問題

原告らは、昭和四八年四月から始まつた第一次茨城工場への配転につき、予定者の自宅を訪問して事情を聴取したうえ、組合に対し、これに応じられない者を守るように働きかけていたが、同年一〇月には、更に第二次茨城工場配転予定者宅を回つてその要求を聴き取る活動をしていたところ、緒方次長は、同月末ころ、朝礼において、「転勤予定者の自宅を回つている不埒な奴がいる。こういう奴にまどわされないように。」と発言し、事実上原告らを名指ししながら、その活動に対し警告し、嫌悪の情を示すに至つた。さらに、それに呼応するかの如く二日後には、組合中央書記長宮崎誠二(以下「宮崎」という。)が原告を呼びつけ、「お前は、組合の方針に反しているから統制処分もありうる。」と脅しをかけた。

被告は、さらに、原告と一緒に訪問活動をしていた吉田に対しては、当初は広島営業所への、次には名古屋営業所への配転を内示し、同じく松岡恒雄(以下「松岡」という。)に対しては、岡山営業所への配転を内示し、同年一〇月三〇日、その発令をした。

(3) 執行委員会での発言差止め問題

原告は、昭和四八年一二月、執行委員会において、「会社が化成品工場の再開を約束して、一二名の従業員を日本ゼオンに一年間の出向を命じたのにもかかわらず、会社が約束を守らなかつた。だから、大阪化成品工場で働けなくなる一二名について日本ゼオンから引き上げさせるべきだ。」と発言し、大阪工場支部の意見としては、原告の右発言もあつて、被告の約束違反に抗議する意味で出向者の総引き上げを決議したが、これに驚いた被告は、黒田課長を通じて、原告に対し、執行委員会で発言するなと圧力をかけ、また、組合中央も最終的には引き上げを要求しないと決議してことなきを得るに至つた。

(4) 時短の否決問題

組合は、当時週休二日制を早期に実現する方針を持つており、組合中央は被告との間で、一日の労働時間を一五分間延長する代わりに休日を増やすという取り決めを行い、その承認を得るために組合員全員の投票にかけたところ、昭和四九年三月八日、労働協約の改訂に必要な三分の二以上の賛成が得られずに否決され、その中でも大阪工場支部の賛成率が四七パーセントと極めて低かつた。これは、爆発事故以来続いて起こつてきた転勤問題、再建問題等で組合の中央が組合員の意見を取り入れる姿勢を持たなかつたことに対する強烈な不信感のあらわれであつて、大阪工場支部での賛成率が極めて低かつたのは、原告の日頃の情宣活動によるところが大きかつたからである。

ところが、組合中央は、本来被告と再交渉をすべき義務があるにもかかわらず、緊急中央執行委員会で組合規約上の手続きを無視して再提案を可決し、中央委員全員が来阪して大阪工場支部の役員を強行に説得し、同支部の組合員には「春闘が闘えなくなる。」と脅した結果、遂に六〇パーセントの賛成を得るに至り、全体としてもかろうじて三分の二を超える賛成を得ることとなつた。

(5) 春闘アンケート結果の配布規制問題

原告は、昭和四九年春闘の結果について、情宣部と調査部とが一緒になつてアンケートを行いその結果を配布しようとしたところ、春闘に対する組合の取組み、その結果について圧倒的に多数の者が不満を表現していたその内容を嫌つて、高崎支部長が、「夏期一時金闘争に入りつつあるこの時期に、配布すれば組合員を刺激するからまずい。」という理由でこれを差し止めた。

(四) 第二期執行委員兼情宣部長当時(配転内示まで)

昭和四九年七月、組合の大阪工場支部の支部長に上田が立候補し、原告も再度執行委員に立候補してともに信任された。

(1) 情宣部長再任をめぐる問題

右役員選挙の際、宮崎に代わつて組合の中央書記長に立候補した本多明(以下「本多」という。)は、「私は組合を分裂さすような奴とはあくまで闘う。」旨原告や上田に対し敵意を持つた立候補表明をなした。そして当選を果たした同人は、大阪工場支部の執行委員会にオブザーバーとして参加しながら、原告が情宣部長に再任された際、「藤原にやらしたらだめだ。大井戸がやれ。」と越権的に発言し、妨害しようとした。

(2) 冬期一時金問題

原告は、支部長が高崎より上田に変わつたことで自由に情宣活動を行えるようになり、昭和四九年一一月からの一時金闘争に関し、被告がもち出した生産性基準原理を批判するなど教宣面にも重点をおいたニュースを活発に発行するなどしたところ、組合中央の情宣部長であり大阪工場支部の副支部長でもあつた川上雄二(以下「川上」という。)が支部執行委員会の席上で、「大阪工場で反対票が多いのは、支部の情宣のせいだ。今後は各支部とも同じようになるよう統制して行く必要がある。」旨発言し、露骨に原告の活動を嫌悪する態度を示した。

(五) 配転内示の意味するもの

原告は、昭和四八年七月に情宣部長就任以来、組合の情宣活動は、組合と組合員を結ぶ絆であり、組合民主主義の基礎であるとの認識のもとに、前記のとおり、従前とは比較にならないほど質量を充実させた情宣活動にとりくみ大きな役割を果たしてきたが、被告の職制を含めて従業員でそのことを知らない者はなく、原告の上司である黒田課長や緒方次長、被告の労務担当者らも充分に知つていた。そして、前記のとおり、被告は組合の一部幹部と一体となつて原告の情宣活動をことごとく抑えつけようとしてきたがいずれも失敗に終わつた。そのうえ、大阪工場支部では、上田が支部長に信任されたことにみられるように、原告らの活動を支持する者が徐々に増え多数派を占めるようになつており、組合中央の思うようにならない支部になりつつあつた。そこで、被告は、原告及びそのグループの組合活動を嫌悪し、その影響力を排除しようとして、昭和四八年一〇月吉田、松岡らに前記配転命令を発し、次いで、昭和四九年一二月原告に対して配転を内示したのである。

(六) 配転内示以降本件解雇に至るまでの経緯

被告は、昭和四九年一二月一七日、原告に対し、静岡営業所への配転を内示したが、以後被告は、組合の一部幹部を使つて強引にその意思決定にまで介入し、支部執行委員会を封じ込め、協議も拒否して原告に配転を迫つた。そして、原告が、配転効力停止の仮処分申請をするや、事前協議無視という労働協約違反を糊塗するため、急遽業務命令を留保して協議の外観をととのえるという挙にでた。その詳細は以下のとおりである。

(1) 支部執行委員会の見解表明前後の対応

原告に対する配転の内示があつたので、大阪工場支部では、昭和四九年一二月二〇日、三役会議を開き、原告が右配転を納得できないと表明しており、支部としても情宣活動上著しい障害が生ずることを理由に原告を守るという結論に異論なく達したが、同月二四日、本多中央書記長、川上副支部長兼中央執行委員情宣部長、熊谷順吉支部書記長が上田支部長に対し、「人事から藤原問題について聞いてきた。配転は仕方がない。」と説得にかかつてきたので、上田は反論したところ、本多は、「お前はとことんやるつもりか。分裂してもやるつもりか。お前と藤原の関係をばらすぞ。」と脅した。ついで、予め支部執行委員会の正式の見解を出す日と決まつていた同月二六日の朝、突然川上副支部長が上田支部長に対し、支部の見解を出すにあたつて広く組合員の意見を聴きたいので職場委員会をもつて欲しい旨提案したので、職場委員会を開催したところ、本多中央書記長がいきなり「この場で藤原問題を決めてもらいたい。」旨発言し、これに呼応して、垣本信介(以下「垣本」という。)、大伊、真鍋らが発言したが、上田支部長や原告らの反論で流会するに至つた。そして、同日予定どおり支部執行委員会が開かれ、一応原告を守ることが結論として表明された。なお、昭和五〇年一月七日、その旨のニュースを組合員に配布したところ、本多中央書記長は、「職場が混乱している。」と称して嫌がらせをした。また、被告は、原告の配転に対し、支部執行委員会の同意を得られないと判断して、同月九日、労働協約違反のがれの便法として、原告に対し、静岡営業所への長期出張命令を内示するに至つた。

(2) 職場委員会への被告の介入

大阪工場支部では、相変わらず、原告の問題をめぐつて支部三役の中で意見が分かれていたこともあつて、支部をどうまとめていくかが議論となり、結局、昭和五〇年一月三〇日に職場委員会をもち、職場討議で意見を聴くという結論となつた。これに対し、被告は、黒田課長が事前に当日の職場委員会で議長をつとめる高崎に対し、同委員会での態度の確認を迫まり、また、緒方次長が事前に浜崎に対し同じく態度の確認を迫まつて介入した。そして、当日の職場委員会では、高崎議長が原告を退場させたうえ、川上副支部長、垣本、大伊、真鍋らが「今さら職場討議は必要ない。藤原問題についてここで決めてもらいたい。」旨主張し、反対する上田支部長を押し切つて結論を出すに至つた。その内容は、「原告の配転はやむを得ない。条件闘争であれば支部として支援するが、平行線であれば打ち切る。」というものであつた。

その後、被告は、職場委員会での右決議をうけて、同年二月七日、原告を含めて支部協議を行い、協議の結果双方平行線とし、二月一八日、原告に対し、本件長期出張命令を発令し、午後からの支部協議において、「これ以上協議する必要はない。中央労使協議会にはかる意思はない。」と言明し、事実二月二一日開催の中央労使協議会(以下、「中労協」という。)では、原告の問題は話し合われず、二月二六日以降は、原告から仕事を一切とりあげ、実験台・事務机の整理、技術月報から原告の氏名の抹消を命じた。そして、静岡営業所に赴かなかつた原告に対し、木下秀雄技術部長(以下「木下部長」という。)らが原告を処分する旨の発言を行つた。

(3) 仮処分申請後の対応

原告が、昭和五〇年二月二八日、大阪地方裁判所に配転効力停止の仮処分申請をし、その理由の一つとして、中労協での事前協議義務など労働協約違反がある旨主張したところ、被告は本多中央書記長らと相謀つて、組合から原告に対する長期出張命令の実施留保の要請があつたような外観を作りあげて同年二月二六日右命令の実施を留保したとし、ついで、同年三月五日以降中労協で組合の中央執行委員会で結論が出るまで待つて欲しい旨の猶予の要請を組合からさせて、協議の回数だけを重ねたうえ、同年四月二五日、命令の実施留保の解除をした。組合は、同年六月三〇日、一旦中央執行委員会で、原告の処分について出勤停止で対応することを決定したところ、同年七月一〇日の労使トップ交渉で、被告職制の行きすぎ発言の陳謝と引きかえに、懲戒解雇もやむなしとの対応に一転し、遂に原告を守る立場に至らなかつた。

この間、同年六月二五日の支部役員選挙で、原告は書記長に、上田は支部長に立候補したところ、対立候補として川上が書記長に、垣本が支部長に立候補して、原告らに対し、「外務勢力をもつて混乱をおこしている。」等と個人攻撃に終始し、また選挙管理委員が垣本らを応援して回つたので、原告らは落選した。それでも原告は、職場委員に選任されたが、中央執行委員の高崎が、原告に職場委員をやめるように圧力をかけた。

そして、被告は、組合役員からはずれた原告に対し、同年八月二〇日、本件解雇に及んだのである。

2  (解雇権の濫用)

原告は、第1項記載のとおり、従来より積極的な組合活動を行つており、本件長期出張命令発令当時は、大阪工場支部執行委員と情宣部長を兼ねていたのであるが、それまでの原告の組合活動に対する被告の対応から判断して、被告が配転の内示に引き続き右命令の発令をしたのは、原告の右活動を嫌悪し、大阪工場支部の組合員から原告を隔離する目的を持つていたからであると考え、右命令に従わなかつたものである。原告は、配転の内示以降、右疑念を表明して拒否の態度を明らかにしていたにもかかわらず、被告は、原告を説得するに際しても、組合の大阪工場支部との折衝の際にも、更には、昭和五〇年二月二八日以降の中労協の席上でも、配転ないし右長期出張命令の業務上の必要性や原告を人選することについての合理性を一切明らかにしなかつた。また、原告は、被告に昭和四五年四月入社以来、大阪で化成品部門の技術者として研究にあたつてきたのであるが、静岡営業所で販売活動に従事することは、勤務地の変更になるばかりか職種の変更にもなるので、原告に著しい不利益を生じさせるものであり、組合にとつても情宣活動などに不利益を生じさせるものであることが明らかであつた。そして、抗弁に対する認否欄記載のとおり、右長期出張命令にはそもそも業務上の必要性は認められないが、仮にそうでないとしても、その必要性の程度は低かつたものである。

従つて、業務上の必要性の程度、原告及び組合の蒙る不利益の程度を双方比較衡量し、更に、原告に対する説得の不充分さなど手続面も総合勘案すると、原告の本件長期出張命令拒否が、被告の就業規則六八条六号の「業務上の指示命令に不当に反抗した」ないしは「職場の秩序を紊した」とまではいえないか、少なくとも解雇を選択することは、解雇権の濫用として許されないものであるといわざるを得ない。

3  (労働協約上の事前協議義務の存在)

本件長期出張命令は、実質的にみれば、被告が昭和五〇年一月九日、配転は撤回しないとしたうえで右命令を内示し、また更新がありうることを伝えていること、出張命令であれば、業務内容の基本は変わらないのが通常であるのに、本件ではその内容は配転命令のそれと同一であること、また、出張命令であれば、大阪の化成品技術課に籍を有しているはずであるのに、原告に同年二月二六日実験台・事務机の整理を命じ、技術月報から原告の氏名を削除していること、化成品部長田原道郎(以下「田原」という。)作成の同年三月一二日付「化成品静岡駐在員の件」と題する書面においても、配転者にしか付されない駐在員という文言が使用されていること、同年二月一八日、木下部長らは原告に対し、出張命令では出されないはずの辞令を出すと言つたこと、同月二一日、黒田課長が原告に対し、被告の真意は配転にある旨伝えていること、本来出張命令であれば、労働協約上必要でない 支部協議、中労協 を開催していることなどからして、配転命令であつたといえるところ、被告と組合との間には、昭和三二年一二月一日付労働協約を基本として昭和四〇年三月三日に労働協約が整備され、現在に至つているが、これによれば人事異動に関し、

「会社は、業務の都合により組合員に転勤、配置転勤を命ずることができる。

この場合、会社は二日以上の予告期間を以て本人に予告し、実情を考慮して決定する。

決定の上は原則として発令後一週間以内に赴任するものとする。

会社の決定が、本人の意向に反するときは、組合と協議する。

又、組合役員の転勤、配置転換については組合と協議する。」

旨の労働協約上の条項が存在していることになるところ、右3項で「決定」と「発令」が区別されていることからみると右4項の協議は発令前の事前協議を意味するものと解釈でき、また、右5項の組合役員には、支部の執行委員も含まれているものと解釈できる。そして、昭和三四年七月一七日発足した労使協議制度のもとでは、従業員の異動に関しては、労使協議会の付議事項とされ、一方で労働条件に関する事項は協議決定事項とされているところ、協議機関として労使協議会の下部組織として東部・西部労使連絡会があり、各労使連絡会で未解決のものは中労協に回付されることになつており、結局、組合員の配転に関しては、各労使連絡会で協議が整わなければ、中労協に回付され、そこで協議、決定することとされている。

さらに加うるに、被告と組合は、昭和四二年一月二八日、支部執行委員も含め「組合役員の転勤、配転を今後極力さけるようにする。」旨の覚書を締結しており、右覚書は労働協約として現在においても効力を有するものである。

4  (雇用契約違反)

原告は、前記出身大学に在学中の昭和四四年六月、被告から技術員としての入社希望者の募集があつたのでこれに応募し、採用面接時勤務場所を大阪とする旨被告と合意したうえで入社し、当初大阪工場技術二課に配属されてコイルコーティング用の塗料の開発に従事し、昭和四五年九月以降は、大阪の化成品事業部で化成品の開発研究に一貫して従事してきたものであつて、入社した経緯及びその後の担当職務内容に照らせば、原被告間に、原告の職種を技術員とし、勤務場所を大阪とする旨の雇用契約が締結されていたものである。

従つて、販売活動に從事するために静岡営業所へ配転ないしは長期出張を命ずるのは、右雇用契約に反するものである。

六  再抗弁に対する認否

1  再抗弁1の冒頭の事実は、いずれも否認する。

(一) 同(一)冒頭の点は知らない。同(1)のうち、被告が就業時間中の無許可の文書配布を注意したことは認めるが、アンケートの内容を嫌悪したとの点は否認し、その余は知らない。同(2)のうち、食堂前広場での労働歌の合唱を注意し、代替場所として支部大会開催場所である食堂の提供を申出たことは認め、その余は知らない。同(3)のうち、被告が柴田講師の入構を拒否したとの点は否認し、その余は知らない。

(二) 同(二)のうち、昭和四八年一月二〇日爆発事故が発生したこと、被告は、組合と協議のうえその了解を得て、同年二月初旬から大阪工場現業員一九五名中一二三名に対し、東京工場、茨城工場、伊賀塗料株式会社への三か月の長期出張を命じ、同年五月には茨城工場に一七名を、更に同年一一月には同工場に一七名を配転したことは、いずれも認めるが、組合が配転に応じられない者を守らなかつたとの点、退職者が一〇余名出たとの点は、いずれも否認し、原告が昭和四七年七月職場委員に信任され、大会代議員を兼務したとの点は、知らない。

(三) 同(三)冒頭のうち、原告及び上田が、昭和四八年七月、それぞれ組合大阪工場支部の執行委員、副支部長に選出されたことは認め、その余は知らない。同(1)のうち、昭和四七年七月大阪工場で、同年一〇月茨城工場でボヤ騒ぎのあつたこと及び被告が当時右ボヤ騒ぎをかくすのに必死になつていたことを除くその余は、知らない。同(2)のうち、緒方が朝礼で、「噂によると、どこの誰かわからないが転勤内示者を訪問して混乱をおこさせるようなことが言われているらしいが、まどわされないように。」と一般的な注意をしたことは認めるが、昭和四八年一〇月吉田や松岡に配転命令を発令したことを除くその余は、知らない。同(3)のうち、黒田課長が原告に対し執行委員会で発言するなと圧力をかけたとの点は否認し、その余は知らない。同(4)のうち、一日一五分労働時間を延長することにより休日が増えたことは認め、その余は知らない。同(5)は知らない。

(四) 同(四)冒頭の事実は認める。同(1)(2)は、いずれも知らない。

(五) 同(五)のうち、被告が昭和四九年一二月原告に配転の意向打診をしたことは認めるが、原告が情宣部長に就任して以来情宣活動を活発に行つてきたことを黒田課長や緒方次長をはじめ被告の労務担当者が知つていたとの点、被告が、組合の一部幹部と一体となつて原告の情宣活動をことごとく抑えつけようとしてきたがいずれも失敗に終わったとの点、被告が、原告及びそのグループの組合活動を嫌悪し、その影響力を排除しようとしたとの点は、いずれも否認し、昭和四八年一〇月吉田及び松岡に配転命令を発令したことを除くその余は、知らない。

(六) 同(六)冒頭のうち、原告に配転の意向を打診したこと、原告が仮処分申請をしたこと、被告が一旦業務命令を留保したことは、いずれも認め、その余は否認する。同(1)のうち、被告が、昭和五〇年一月九日、労働協約違反のがれの便法として、原告に対し、長期出張命令を内示したとの点は否認し、その余は知らない。同(2)前段のうち、昭和五〇年一月三〇日の職場委員会で、大阪工場支部としては、「原告の不利益とならぬように中に入り、賃金、住宅等の条件面の交渉にかえて交渉する。但し、最後まで原告が拒否するのであれば、適当な時期で判断して今後この問題から手を引く。」旨の結論が出たことは認め、黒田課長及び緒方次長が右職場委員会の前にそれぞれ高崎、浜崎に接触し介入したことを除くその余は、知らない。同(2)後段のうち、同年二月七日支部協議が行われたこと、同月一八日、本件長期出張命令が発令されたこと、同月二一日中労協が開催されたことは、いずれも認める。同(3)のうち、原告が、昭和五〇年二月二八日仮処分申請をしたこと、これに先立つて同月二六日、原告から組合の中央執行委員会に提訴があつたので次回の中労協の議題としたい、ついては同月一八日付の長期出張命令の発令を一時保留されたい旨の申入れが本多中央記書長からあつたので、被告は了承したこと、同年三月五日の中労協及び同月一二日の西部労使連絡会で組合から中央執行委員会で結論が出るまで待つて欲しい旨要請されたので被告は了承したこと、同年四月二五日、被告は右命令の実施留保を解除したこと、同年七月一〇日、中労協において組合から原告の懲戒解雇もやむなしとの見解の表明を受けたこと、同年八月二〇日、原告に対し本件解雇をなしたことは、いずれも認め、支部役員選挙の点は知らないが、その余は否認する。

2  同2の事実のうち、原告が本件長期出張命令発令当時大阪工場支部の執行委員であつたこと、原告が配転の意向打診をしたところ、組合役員を途中で放棄したくないとの理由を追加的かつ補充的に主張して拒否の態度を示したこと、原告は、被告入社以来大阪で技術員として研究にあたつてきたので、静岡営業所で販売活動に従事することは、一応勤務地及び職種の変更になることは、いずれも認めるが、原告が情宣部長として従来より積極的な組合活動をしてきたとの点は知らず、その余は否認する。

3  同3のうち、被告において組合の単一化がはかられる前の東亜ペイント労働組合連合会と被告との間で、原告の主張するような経緯で原告の主張するような内容の人事異動条項を含む労働協約がかつてでき上り存在したこと、原告の主張する労使協議制度や昭和四二年一月二八日付覚書がかつて存在したことは、いずれも認めるが、本件長期出張命令が実質的には配転命令であるとの点は否認する。

4  同4のうち、原告の被告入社後の担当職務は認めるが、その余は否認する。

七  再々抗弁

(労働協約上の事前協議義務の事後協議義務への変更)

仮に、本件長期出張命令が実質的に配転命令であるとしても、被告は、現在有効な労働協約上の事後協議の手続を踏んでいる。

即ち、東亜ペイント労働組合連合会は、昭和四一年七月単一組合となり、翌昭和四二年被告との間で、現行労働協約を締結した。その後、昭和四六年四月二八日の第七八回中労協で中央委員、支部三役及び会計の異動については全て中労協で事前協議を行う旨確認し、その後昭和四七年一二月一六日の第九〇回中労協で「組合役員(中央委員、支部三役及び会計)の異動について、現労働協約二九条を再確認した。なお支部執行委員の異動については、従来通り(一般社員と同様)とするが、組合支部よりの意見があれば支部において話合う。」旨確認されたので、中労協議事録に労働協約と同じ効力が与えられている以上、右確認により、支部執行委員については、一般組合員と同じく、発令後本人の意向に反し支部からそのことについて意見が出たときに、支部協議会で話合えばよいということになつたものである。原告主張の昭和四二年一月二八日付覚書も右確認により同じく変更されるに至つたものである。なお、原告主張の労使協議制度は、組合が単一化し、各単組が支部となつたので、労働協約から削除され、新たに労使協議会が復活し、現在に至るまで中労協及び支部協議会が運営されているものである。

ところで、本件においては、被告は、昭和五〇年一月二四日、同月二九日、同年二月三日、同月七日、同月一八日と引き続いて支部協議を行い、右協約上の義務を尽したものである。

八  再々抗弁に対する認否

再々抗弁中、被告が組合との間で昭和四二年に現行労働協約を締結したこと、第九〇回中労協で支部執行委員の配転に関し、発令後本人の意向に反し支部からそのことについて意見が出たときに支部協議会で話合えば足りるとの確認がなされたこと、昭和四二年一月二八日付覚書が右確認により変更されたこと、労使協議制度が失効し、新たに労使協議が復活したこと、労働協約上支部協議会が存在していること、昭和五〇年二月七日を除き支部協議会が被告主張の日に開催されたことは、いずれも否認する。冒頭の主張は争う。

なお、第九〇回中労協の確認文言中「支部執行委員については、従来どおり(一般社員と同様)とする。」というのは、労使協議制度の下での労使連絡会での協議が必要なことを明らかにしたものであり、同文言中「組合支部よりの意見があれば支部において話合う。」というのは、一般組合員と異なり、支部執行委員の場合、支部運営の立場から、支部で意見があれば、支部で話合う旨の要件を付加した趣旨である。また、昭和五〇年二月七日の被告と支部との協議は、全く平行線のまま推移したにすぎなかった。

第三  証拠<省略>

理由

第一地位確認及び賃金・一時金請求部分について

一請求原因1及び2の事実は当事者間に争いがない。また、抗弁1の事実は、本件長期出張命令が実質的には配転命令とみられるものであるのか否かの点を除き、当事者間に争いがない。

二そこで抗弁2(本件長期出張命令の業務上の必要性)について検討する。

1  <省略>

2  右争いのない事実に加え、<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(一) 被告は、大阪に本社、事務所を、東京及び名古屋に支店を、静岡など全国一五か所に営業所を、大阪、東京及び茨城に工場を置き、従業員約六五〇名を擁して、塗料及び化成品の製造販売を行つている業者である。

原告は、大学卒業後昭和四五年四月被告に入社し、大阪工場技術二課に配属されてコイルコーティング用の塗料の開発に従事し、同年九月以降は、大阪工場内所在の化成品事業部化成品研究課(但し、昭和五〇年二月に大阪技術部化成品技術課と名称変更)で、主として、木工用・紙工用接着剤など酢ビエマルジョンの開発研究を担当し、後記(二)の爆発事故後は、塩ビ合板用接着剤も手がけていた。

なお、被告で製造販売する化成品の主原料・用途別分類は、別紙〔D〕のとおりである。

(二) 昭和四八年一月二〇日、被告の唯一の化成品工場であつた大阪工場内化成品工場で爆発事故が発生し、そのためにそれ以降は被告での化成品の製造は停止するに至つた。被告は、当初化成品部門を独自で再建することを決定し、再建までの間は同業他社から化成品の製品を購入し、また生産委託し、自社のラベルを貼るなどしてユーザーに供給していくこととしたが、当時の石油危機に起因する景気後退の影響もあつて、徐々に販売実績が低下し、従来から取引のあつた多くのコンスタントユーザーを失うに至つた。被告における化成品全体の販売実績について比較すれば、爆発事故前の昭和四七年上期(昭和四七年四月から同年九月まで)は、大阪で一九七五トン、東京で一一八二トン、名古屋で三五七トン、静岡で二七二トン、九州で一六三トンなど合計四二〇三トンの売上げがあつたのに対し、爆発事故の影響を蒙つた昭和四七年下期(昭和四七年一〇月から昭和四八年四月まで)は、大阪で一八〇五トン、東京で一一五七トン、名古屋で三二一トン、静岡で一三〇トン、九州で二〇三トンなど合計三八三五トンと減り、昭和四八年上期(昭和四八年四月から同年九月まで)は、大阪で一二九五トン、東京で一〇一三トン、名古屋で二五九トン、静岡で零トン、九州で一二五トンなど合計二八七〇トンに、昭和四八年下期(昭和四八年一〇月から昭和四九年三月まで)は、大阪で八四九トン、東京で六三一トン、名古屋で一三四トン、静岡で零トン、九州で三二トンなど合計一六九八トンに激減するに至つた。その特徴としては、第一に、被告においては、従来より大阪及び東京で全社の七〇パーセント前後の売上げを保つてきたところ、数量的には爆発事故後両地区の売上げが激減し、被告に大きな痛手を与えたこと、第二に、静岡地区は爆発事故前大阪、東京、名古屋に次いで第四位の売上げを記録していたにもかかわらず、昭和四八年上期以降はほとんど売上げがない状態になつたことなどが指摘できる。

(三) ところで、このような状況の中で当時、大阪工場再開に対する地域住民の反対、工場立地・消防・公害規制に関する諸法の規制の関係官庁からの厳しい遵守要求、右工場所在地の工業地域から準工業地域への指定変更という事態が生じ、新たな化成品工場の代替用地も見つからなかつたことから、被告は、当面独自の化成品部門の再建を断念せざるを得なくなり、昭和四九年三月、日信化学との業務提携により化成品部門を継続することを決定した。その業務提携の内容は、日信化学が酢ビエマルジョン、混合製品、アクリルエマルジョン、アクリルゴムの四品種の生産を担当し、昭和五〇年三月から同社の武生工場で本格的操業を開始する、被告は生産技術の提供と販売を担当する、その月間生産量は、被告の社内消費分を一一五トンとし、販売分を三二八トン(内訳 酢ビエマルジョン一七五トン、混合製品八三トン、アクリルエマルジョン三〇トン、アクリルゴム四〇トン)とする、そしてその合計四四三トンを最低数量とするというものであり、目標数量の販売を達成しないと損益計算上被告と日信化学の業務提携が危ぶまれ、被告の損益分岐点を下廻る結果になりかねないものであつた。

そこで、被告は、昭和四九年六月、化成品販売戦力強化プロジェクトチームを発足させ、昭和五〇年三月の日信化学武生工場の操業開始に符合させるべく、品種別・地域別の過去の販売実績等を三回にわたつて検討して、販売計画をたてた。その内容は、生産体制が整い景気が回復すると仮定したうえで、販売数量を酢ビエマルジョン 一八六ないし一九一トン、混合製品 八三トン、アクリルエマルジョン 二四トン、アクリルゴム 三九・五トンの合計三三二・五ないし三三七・五トンとする、販売地区を大阪、東京、名古屋とするが、酢ビエマルジョンに関しては右三地区の他に各地の営業所関係で二四トンを販売するというものであつた。そして、被告は、右計画の中で販売割当量の多い化成品部大阪営業課に橋本雅司を、同部東京営業課に尾坂一宅を配置して営業面を補強することを決定し、同年九月中にその旨発令するとともに、右プロジェクトチームも一応使命を終わつたとして解散させた。

(四) しかしながら、総需要抑制策の煽りを受けて景気は一向に回復せず、接着剤業界も昭和四九年四月時点では対前年比で同年度の生産量が五パーセント増となると予想されていたにもかかわらず、結果的には対前年比二〇パーセント減を余儀なくされるという不況状態にあり、昭和五〇年度ののびもあまり期待できないとの見方が強くなつてきた。そのような中で、被告の化成品の売上げは、(三)記載の目標数量に対し、昭和四九年六月に一二四トン、七月に一二三トン、八月に一四七トン、九月に一六六トン、一〇月に一七三トン、一一月に二三四トンと逓増はしているものの目標達成に不安を残すものであつた。そこで、同年一一月一八日、静岡営業所を統轄する化成品部東京営業課から同営業所へ化成品専任駐在員を補充してもらいたい旨の要望が出されるに及んで、静岡地区の開発の必要性の有無が被告において検討されるに至つた。

(五) ところで、静岡地区は、家具メーカーなど木工用接着剤等の需要があるだけでなく、富士合板、富士見化成、浜田木材、浜田産業、東木材、坂政合板、磯谷合板、パイオニアなど特殊建材メーカーの工場が多く、全国的にみても、東京、鹿沼、高崎など関東地区に次ぐ塩ビ合板用・プリント合板用接着剤の有力市場であつた。被告においても、化成品部東京営業課に在籍する芳川が昭和四六年当時から静岡地区へ出張し、富士合板、富士見化成、浜田木材、磯谷合板、東木材などを訪問し、ユーザーの要望を聴き取り、或いは、これらのユーザーに塩ビ合板用接着剤の試験結果報告書を提出したりして接触しており、富士合板、富士見化成などに塩ビ合板用接着剤の納入実績があつた。但し、プリント合板用接着剤に関しては、富士見化成などに少量納入された時期があつた程度で、とりたてて納入実績といえるほどのものはなかつた。

(六) 被告は、(二)記載のとおり、静岡地区で最盛期の昭和四七年上期には二七二トン(月平均四五・三トン)の化成品販売実績をもつていたが、同期下期には一三〇トンに減少し、昭和四八年上期及び下期にはほとんど売上げが無い状態になつていた。これは、被告における全体の化成品調達実績が、昭和四七年上期の四四五五トンから昭和四八年下期の二一一七トンへと半分以下に減少する中で、被告が重要性・回復の可能性などの観点から納入先の選定をせまられた結果、静岡地区での販売の中心であつた塩ビ合板用接着剤に関しては、東京のボード株式会社や大阪の大建工業株式会社の業界最大手二社への納入を優先せざるを得なくなつたからであり、同地区をいわば切捨てざるを得なかつたからである。

(七) ところで、被告においては、静岡地区での販売実績がほとんど皆無になつてからも、芳川が同地区に出張してユーザーとの接触を保つていたところ、昭和四九年九月、浜田木材への納入見込みのついたプリント合板用接着剤の試作を行い、同年一二月から同社へ月五トン程度の納入が確実視されるような状態となり、同年一〇月には、パイオニアへの混合製品も試作する段階であつた。

(八) 静岡営業所は、昭和三九年以降当時に至るまで、二ないし四名の営業員がおかれていたが、化成品専任の営業員としては技術経験のない藤本が昭和四五年に半年間勤務したことがあるだけでそれ以降の補充はなく、以後上原が出張し、昭和四七年四月からは芳川が出張して販売にあたつていた。

ところで、被告においては、従来から、化成品関係の営業員が大阪・東京両営業課、名古屋営業所に常駐しており、大阪の化成品事業部化成品研究課所属の技術員が大阪・東京両営業課に営業技術員として配置換えとなる例が過去に八件ほどあり、その場合の営業技術員の職務内容は、製品の開発改良に結びつけるためにユーザーから要望を聴取し情報交換し、ユーザーに供給した製品の使い方について技術指導し、クレーム処理に際して技術的な相談にのるなどというものであり、いわゆるセールスエンジニアの仕事がそれにあたるものであつた。

そして、接着剤の場合、接着条件が被接着物の含水率、接着剤の塗付量、塗付堆積時間、熱圧条件などで変わるため、接着剤の使用方法などに関し技術指導を行うことがのぞましく、ユーザーからの要望に応じてそのラインテストに技術者が出張して立会うこともあつた。

(九) 被告は、静岡営業所へ原告を営業技術員として配転することを決定し、昭和四九年一二月一七日、黒田課長を通じて原告に対しその意思を伝えた。当時化成品研究課には黒田課長以下内広、木村、守、長谷川、馬場、原告の七名が在籍していたが、内広については、酢ビエマルジョン、エチレン酢ビエマルジョン、アクリルエマルジョンの生産及び技術についてのベテランであつて、昭和五〇年三月からの日信化学武生工場の本格的稼動にあたつて生産技術の指導のため派遣されることが予め決まつており、木村及び馬場は従来からアクリルゴムを担当し、守は従来からウレタン樹脂関係にたずさわつており当時は皮革塗料プロジェクトの一員であり、長谷川は昭和四九年一〇月から同人が開発した塗料用総合剤の改良と商品化のプロジェクトの一員であり、また、同人は、昭和四五年から昭和四九年三月まで大阪営業課に転出して帰つてきたばかりであつた。また、当時他課に在籍する化成品技術の出身者のうち、上原は大阪技術部の重防蝕プロジェクトチームの一員であり、高瀬は東京技術部のアルミニューム型材塗装法・塗料開発プロジェクトチームの一員であり、いずれも被告の重点開発部門のチームの中堅社員であり、更にはそれぞれ主事一級(課長代理級)、主事二級(係長級)であつて当時の静岡営業所長主事二級(係長級)の山崎の監督下に置くことは適当でなく、大阪技術部道路技術課の土田及び同部エポキシコーティングシステム研究開発プロジェクトチームの一員である大沢は、いずれも工業高校卒で、昭和四七年四月から昭和四八年一月の爆発事故までの間化成品技術の補助業務にたずさわつた程度でその経歴からみて静岡地区の駐在員とすることはやはり不適当であり、東京営業課の芳川は鹿沼、高崎などを含めた東京域における販売計画数量の達成のために同課に必要な存在であつたので静岡地区に常駐させるわけにはいかず、他に他課在籍の技術員ないし技術出身者で適任者はいなかつた。

なお、当時被告の化成品部では、営業にたずさわつていた者が、大阪営業課で五名(うち二名がセールスエンジニア)、東京営業課では芳川を除き四名、名古屋営業所で一名いたが、これらの者について静岡営業所への配転の適否が検討された形跡はない(ところで、名古屋営業所には、従来から城島と永見の二名が化成品専任の営業員として配属されていたが、昭和四九年末ごろ、城島が退職したことから一名となり、それ以降補充されていない。)。

(一〇) 被告は、原告が配転に応じようとしなかつたため、原告に対し、昭和五〇年二月一八日、同月二四日ないし二五日に営業技術担当者として静岡営業所へ六か月間長期出張するようにとの業務命令を発し、同年四月二五日には赴任日を連休明けの同年五月六日までと変更して伝えたのにもかかわらず、原告が右命令に従わなかつたため、同年八月二〇日、本件解雇をなすに至つた。

その間における被告の化成品の販売実績は、昭和四九年一二月に二四八トン、昭和五〇年一月に二〇七トン、二月に二四二トン、三月に三四七トンとなつて、いつたんは目標を達成した後、同年四月に二五九トンと目標を下廻り、五月に二八二トン、六月に三四〇トン、七月に三三四トン、八月に三二二トンというように推移した。

(一一) しかしながら、静岡地区での化成品の販売実績は、昭和四九年一一月にそれまでほとんど零であつた状態を脱して二・五トンの売上げを記録し、以後一二月に二トン、昭和五〇年一月に一二トン、二月に一五トン、三月に一四トン、四月に五トン、五月に一〇トン、六月に一〇トン、七月に一六トン、八月に二三トンとなつた程度で、爆発事故前における実績を回復するまでには至らなかつた。

被告は、原告を解雇した後、昭和五〇年九月五日、芳川を静岡営業所駐在員として選任し派遣したが、それ以降の同地区の販売実績は、同年九月に二〇トン、一〇月に二二トンと当初低迷したものの、一一月に五七トンと爆発事故前の実績を初めて上廻り、以後一二月に七二トン、昭和五一年一月に四五トン、二月に四九トン、三月に七七トンと推移し、被告における化成品全体の売上げも、昭和五〇年九月以降四〇〇トンを上廻る状態を維持した結果、昭和五〇年上期(昭和五〇年四月から同年九月まで)では月平均三二七・八トンとほぼ目標数量の三二八トンを達成し、同年下期(同年一〇月から昭和五一年三月まで)には月平均四七四・四トンと更にのびるに至つた。

ところで、被告は、爆発事故前から静岡地区で木工用接着剤などに関しても販売実績をもつていたところ、同地区で昭和四九年一一月以降売上げを回復するに至つたのは、プリント合板用ないし塩ビ合板用接着剤の他に木工用接着剤などを採算を度外視して安価で販売したからであり、その傾向は、芳川が常駐後初めて同地区における爆発事故前の実績を上廻つた昭和五〇年一一月以降顕著であつた。

(一二) 化成品研究課には、爆発事故当時一二、三名の技術員がいたが、昭和四九年当時は八名に減員され、更に、(三)記載のとおり同年九月橋本が大阪営業課に配属となり、残りの課員のうち長谷川と守は、(九)記載のとおり他のプロジェクトチームでの仕事に従事しており、内広は翌年より日信化学へ技術指導に派遣されることが決まつていた。原告に対する配転が問題となつた時期は、そのような忙しい時期にあたり、黒田課長が自ら実験にあたり、大阪営業課へ転出した橋本が翌昭和五〇年二月から実験に戻つてくるような状態であつた。被告は、同月二六日以降、原告の就労を拒み、内広派遣後は、同年内に大沢、日野を、昭和五一年に土田を、昭和五二年に橋本をそれぞれ化成品技術課に配置換えするに至つた。

以上の事実を認めることができる。

<中略>

3  そこで、右認定事実を前提にして、業務上の必要性の有無について検討することとする(但し、発令の経緯、内容、被告の主張などからして、本件長期出張命令の業務上の必要性は、配転のそれとほぼ同内容のものであることを前提として、以下考察する。)

被告と日信化学との間で締結された業務提携によつて決められた化成品の販売計画数量は、右業務提携の継続を可能ならしめる両社の損益分岐点を割り出し損益計算を尽くしたうえで算出された数量であり、被告が将来化成品部門を独自で再建し、これにつなげていくうえにおいても右数量の販売を達成することが要請されていたものと考えられるところ、被告においては、昭和四九年一一月ころの時点での化成品の販売実績から判断すると、日信化学武生工場が本格的に稼働を開始する昭和五〇年三月までに右目標数量を達成できるかということについて懸念せざるを得ない状態であつたのであるから、当時化成品販売の営業面を強化する業務上の必要性が存したものというべきである。

次に、被告が静岡地区を重点地区として選択したことに相当性が認められるかについて考察するに、昭和四七年上期の同地区における化成品の販売実績は、順位こそ大阪・東京・名古屋に次ぐものであつたが、量的には二七二トン(月平均四五・三トン)であり、爆発事故前にあわせて化成品全体の七〇パーセント前後の売上げを記録していた大阪・東京両営業課の事故後の減少量に比較すれば非常に少量であるとうかがえること、静岡地区における右販売量は、塩ビ合板用接着剤のみならず木工用接着剤なども含んだ数量であるところ、被告の木工用接着剤などが同業他社の製品に比べて値段面や品質面において優位にたつていたことを認めるに足りる証拠はなく、塩ビ合板用接着剤に関しても、トアボンドVOを除き優位にたつていたことを認めるに足りる証拠がないこと(トアボンドVOがどの程度の数量同地区の得意先に納入されていたかは不明である。)、被告が塩ビ合板用・プリント合板用接着剤に関し、各ユーザーごとのオーダーメイド品とまでよべる製品を静岡地区で納入していたことを認めるに足りる証拠がないこと、昭和四九年一一月当時、芳川の出張訪問活動により、納入再開の目途のついていたのは、わずかに浜田木材に対して翌月からプリント合板用接着剤を五トン納入できることになつていたという程度のことであり、他のユーザーに関しては、爆発事故前の得意先も含めてかかる目途がついていたことを認めるに足りる証拠がないことなどからすると、当時被告にとつて、ユーザーに対する売込みに際し技術指導などのサービスにつとめるとしても、静岡地区で失つた販売実績を回復するのが容易であつたとまでいうことは到底できず、また、回復に確かな手応えが感じられたものともいえず、仮にユーザーの開発に成功したところで、爆発事故前の前記実績を完全に回復できるかも疑問であるといわざるを得ず、結局、被告が大阪・東京などをさしおいて静岡地区を重点地区として選択したことの相当性には疑問が残るところである。

(なお、化成品販売戦力強化プロジェクトチームの会議で大阪・東京とならび重点地区とされた名古屋営業所で昭和四九年末ころ化成品販売専任の営業員が一名欠けたのに、被告が補充しなかつたこと、芳川が静岡営業所に常駐後販売実績がのびたのは、塩ビ合板用・プリント合板用接着剤の他に木工用接着剤などを安価で販売したからであることは、いずれも前記認定のとおりである。)

ついで、化成品研究課所属の技術員を静岡地区へセールスエンジニアとして常駐させる必要性があつたかについて考察するに、確かに接着剤を販売するにあたつてはユーザーに対して技術指導を行う必要性のあるときがあり、塩ビ合板用・プリント合板用接着剤の場合被接着物の種類・性質からかかる技術指導を行う必要性が高くなるものと推認できるところ、右技術指導には技術員があたるほうが望ましく、とくに販売実績を短期であげるためには技術員が常駐して多数のユーザーと接触し、何度となく技術指導を行うほうが効果的であることも否定できない。しかしながら、前記のとおり、プリント合板用接着剤について納入目途のついているユーザーが一社ある他は塩ビ合板用・木工用接着剤などに関して納入目途のたつているユーザーは認められず、塩ビ合板用接着剤の納入再開、プリント合板用接着剤の新規納入の見込みがそれほどたつていたわけではないこと、木工用接着剤の技術指導であれば、塩ビ合板用・プリント合板用接着剤の場合ほど技術員の立会などが要請されるわけではないと考えられることなどからすると、そのような中で、前記2項(一二)で認定したとおり、忙しい状態にあつた当時の化成品研究課の数少ない技術員の中から一名を割き、静岡営業所に常駐させるほどの必要性があつたのかにも疑問の余地があり、爆発事故前に静岡地区では営業員のみで前記のとおりの販売実績を上げていたことを考慮すると、少なくとも大阪・東京・名古屋の化成品営業担当者をも含めて人選の検討を行うべきであつたのにこれを欠いたうらみがあるといわざるを得ない。

しかしながら、配転命令など使用者の人事権は、一般的に労働者の生活関係に少なからぬ影響を及ぼすところから無制約に行使することまでは許されないものの、業務上の必要性に応じて、使用者が景気動向などの複雑な環境要因も考慮に入れながら経営戦略をたて、これにもとづいて行使する点で基本的には使用者の裁量に委ねられているものと解されるところ、本件においても、被告には、日信化学との業務提携による販売計画数量を達成する業務上の必要性があり、右必要性がある以上、どの地区を開発重点地区として選択するか、誰れをどのような形で派遣するか、は一応使用者たる被告の裁量にまかされているものと考えるべきである。この観点からすると、前記のとおり、静岡地区を重点地区として選択したことの相当性、技術者をセールスエンジニアとして常駐させる必要性に関して疑問の残ることは否定できないが、静岡地区では爆発事故前に塩ビ合板用接着剤の販売実績があり、昭和四九年一一月の時点ではプリント合板用接着剤の納入予定業者も一社見つかつていたのであるから、今後同地区で失つた塩ビ合板用接着剤の得意先を回復し、プリント合板用接着剤の新規納入先を開拓できるものと被告が信じたとしても合理的根拠を全く欠くとまでは断定できず、また、ユーザーに対して納入するに際しては、とくに塩ビ合板用・プリント合板用接着剤の場合技術指導の必要性があり、そのためにはセールスエンジニアの常駐が望ましいことも否定できないのであつて、被告がセールスエンジニアの常駐を決定したこと、セールスエンジニアである以上営業員から人選をしなかつたことにも、右裁量権の行使を誤つたものとまでいうことはできないものと考えられる。

(もつとも、被告の右の諸点に対する判断が裁量権の行使を誤つたものとまで認められないとしても、その判断に疑問が残る本件においては、業務上の必要性が絶対的なものとして認められたものとはいえず、原告に対する人事権の行使に他目的があつたのではないかとの疑念を生じせしめることも否定できない。)

4  以上によれば、一応本件長期出張命令には業務上の必要性があつたものといわざるを得ず、原告がこれに従わなかつた以上、被告の就業規則六八条六号にも該当するといわざるを得ない。

三次に、再抗弁1(不当労働行為)について、検討する。

1  <省略>

2  右争いのない事実に加え、<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(一) 原告は、昭和四五年四月被告に入社し、被告と組合間にユニオンショップ協定が存在したことから、四か月間の試用期間を経過すると自動的に組合員資格を得た。

ところで、組合には、大阪工場支部、大阪事務所支部、東京工場支部、東京事務所支部、茨城工場支部の五支部があり、機関としては、定期大会・臨時大会、中央執行委員会の他に、各支部に支部大会、職場委員会、職場会議、支部役員会が存在するところ、原告は、組合員となると同時に青婦部に入つて活動し、翌昭和四六年七月から昭和四七年六月まで、大阪事務所支部と大阪工場支部を含む西部青婦部部長をつとめた。なお、当時青婦部は一八〇名余りを擁しており、大阪域の組合員の約四割を占めていた。

(二) 原告は、昭和四六年一〇月、西部青婦部の活動の一環として、当時の組合員の意識状況を調査するため、政治社会情勢に関するアンケートを実施したところ、被告の人事部から、就業時間中に許可なく配布することは認められないとして制止された。被告の就業規則三二条には、社員が会社施設内で文書等を配布しようとする場合などには予め会社の許可を受けなければならない旨規定されている。なお、右アンケートには、沖縄返還問題・学生運動問題・政党支持問題等が含まれていた。

また、当時の組合大阪工場支部支部長高崎は、アンケートの集約結果中政党支持問題に関する部分の削除を求めたので、原告らは右部分を削除して公表せざるを得なかつた。

(三) 青婦部員は、昭和四七年春闘の際、春闘を盛り上げるために昼休み中食堂前の広場で労働歌を合唱していたところ、緒方次長から原告に対し、無許可だから、その場で歌うのは認められないと制止され、代替場所の提供を申出られた。労働協約には、会社の施設利用に関し、組合事務所の他は組合活動による場合でもその都度会社の承認が必要である旨の規定がある。

ところで、原告らは、青婦部の決起集会の際に、その要求を横断幕にして会場である食堂の前に張り出そうとしたところ、高崎支部長から、会社を刺激するなどの理由で制止され、闘争時に門前で組合旗を掲揚し、はちまきをしてビラまきをしたい旨申出たが、これも同支部長から同じような理由で拒否された。

(四) 原告らは、昭和四七年、青婦部の行事として婦人の母性保護問題の講師として大阪市立大学の柴田悦子助教授を招こうとしたところ、被告は、右人物が好ましくないことなどを理由に講演のための施設利用を承認しなかつた。

ところで、昭和四五年八月ころ、原告の前任者であつた上田が、高崎支部長に対し、青婦部員の研修会に必要な費用の支出を求めたところ、民青の講師に金は出せないなどの理由で拒否されたことがあつた。

(五) 原告は、青婦部の活動にもの足りなくなつて、昭和四七年七月、組合規約上各職場から原則として組合員二〇名に一名の割合により選出されることになつている職場委員に立候補して信任され、同時に大会代議員も兼務して翌昭和四八年六月までその任務をつづけた。

昭和四八年一月二〇日、大阪工場内の化成品工場で爆発事故が発生し、原告、上田らも含めて一〇〇名を超す負傷者がでた。そして、同月二五日には爆発した製品を開発した主任技術者西村秀二が一家心中をするという事態が発生した。ところで、右爆発事故の刑事責任に関しては、反応釜の作業を担当していた入江の操作ミスとして同人に罰金二〇万円の略式命令が科せられたが、組合は、事故調査委員会を設置し、右爆発事故の原因は、被告の安全性を無視した生産第一主義にあるとし、被告の責任を追求する姿勢を示し、原告も技術者として右事故調査委員会の調査に協力したほか、職場内外で安全の確立、責任の明確化を要求し、また、大阪工場の全面再開を求める運動にも加わつた。しかし、被告は、右爆発事故の翌日に臨時生産体制を発表し、それまでの生産をできるだけ維持するためにも、組合に対して協力を求めることとし、同月末以降組合との間で中労協、支部協議を何回となく行い、その交渉過程において、(1)被告は、爆発事故による従業員の解雇を行わない、(2)大阪工場の再建後の予定生産量は未確定であるが、月間約七五〇トン程度に減少する可能性がある、(3)大阪工場復旧工事が完成するまで、負傷者及び大阪工場再建要員を除き同工場の現業員一九五名中一二三名に対し、同年二月初旬から、東京工場、茨城工場、被告の子会社である伊賀塗料への三か月の長期出張命令を発令することを申入れ、組合と協議してその合意を得た。昭和四八年四月に至り、関係官庁の認可が得られた大阪工場の月間生産量は、爆発事故前の約三分の一にあたる合計七五〇トンにすぎないことが判明したので、被告は、大阪工場を縮少するとともに茨城工場にエナメル工場を新設し、ラッカー工場を増設することを決定し、同月下旬、組合に対し、同工場の新増設部門には大阪工場からの配転で人員補充を行いたい旨の提案をなしたところ、組合も、現実を直視するという観点から、被告の責任追求と安全対策が完備された大阪工場の再開によつて職場の確保をはかるというそれまでの方針から譲歩することもやむを得ないとの結論を出し、最終的には、同年五月に茨城工場内ラッカー工場製造員として一七名を、更に、同年一一月同工場にエナメル工場が完成する際にその要員として一七名をそれぞれ配転する、同年四月末に戻つてくる予定の前記長期出張者中、茨城工場内ラッカー工場製造員として必要な一七名を除く従業員に関しては、とりあえず六か月間の再長期出張を命じ、大阪工場が逐次再建される過程で順次復帰する。という線で合意をみた。ところで、大阪工場支部の職場委員会では、それ以前に、大阪工場で全員が雇用されることを求め、配転を伴う再建には反対である旨の決議がなされていたにもかかわらず、組合が前記のとおり被告の提案を受け入れて配転もやむなしという姿勢に変わつたことに関して、原告は、組合の中央に対して疑問を抱くようになり、配転拒否者を守るという姿勢も弱く感じたので上田、吉田、松岡、猪尾らと一緒になつて爆発事故後から続けてきていた、被災者への補償を完全に行うこと、安全体制を確立すること、大阪工場を全面再建することなどを要求事項とするための組合員宅への訪問活動を、茨城工場への配転予定者宅にまで対象をひろげることとし、更に継続することとした。

(六) 原告は、昭和四八年七月、大阪工場支部の執行委員に立候補して当選し、かつ、同支部の情宣部長に信任され、上田は、同支部の副支部長に立候補してやはり当選を果たした。

原告は、情宣部長に就任してから間もなく、それまでは一時金闘争や春闘時にしか発行されていなかつた組合ニュースを定例化して月一回は最低発行することにし、内容面では組合員の要求や声をも反映させて紙面作りを行つたが、同時に、当時の爆発事故の責任問題、被災者の完全救済問題、茨城工場への配転問題なども積極的にとりあげて情宣活動を活発に行つた。そのような中で、昭和四八年七月四日大阪工場の工業品技術棟でボヤ騒ぎが起き、同年一〇月初旬にも茨城工場でボヤ騒ぎが起こつたので、原告は、被告の安全管理体制が杜撰であるとして直ちに右茨城工場の件を組合ニュースに取り上げて組合員に配布したところ、これを機に高崎支部長は、原告に対し、以後のニュースの発行は事前に同人の了解を得てからにするように要求し、その結果、それ以後原告は、爆発事故の責任問題、被災者の後遺症の問題などに関する情宣活動がほとんどできなくなつた。

(七) 原告らは、昭和四八年四月からは、茨城工場への配転予定者宅を訪問する活動を続けていたところ、同年一〇月末ころ、緒方次長は、朝礼において、「噂によると、どこの誰れかわからないが配転内示者を訪問して混乱をおこさせるようなことが言われているらしいが、まどわされないように。」と発言したが、その当時被告の人事部副部長であつた門永は緒方次長から、原告他二名の者が転勤内示者宅を訪問して活動している旨の報告を受けていた。ところで、その二日後、宮崎中央書記長は原告に対し、右訪問活動の件に関し、組合の方針に反しているから統制処分もありうる旨ほのめかした。

被告は、同月三〇日、吉田に対し名古屋営業所への、松岡に対し岡山営業所への配転命令を発令した。

(八) 原告は、昭和四八年一二月、執行委員会において、「会社が化成品工場の再開を約束して、一二名の従業員を日本ゼオンに一年間の出向を命じたのに、会社が約束を守らなかつた。だから、大阪化成品工場で働けなくなる一二名について日本ゼオンから引き上げさせるべきだ。」と発言したこともあつて、大阪工場支部の意見としては、出向者の総引き上げを決議したが、組合の中央執行委員会では、期間中の引き上げは求めない旨結論を出した。

(九) 組合は、当時週休二日制を早期に実現する方針をもつていたので、組合の中央執行委員会は被告との間で、一日の労働時間を一五分延長する代わりに休日を増すという線での話をとりまとめ、昭和四九年度時間短縮案としてその承認を得るために組合員全員の投票にかけたところ、昭和四九年三月八日、労働協約の改訂に必要な三分の二以上の賛成を得られずに否決されたが、その中でも大阪工場支部の賛成率が四七パーセントと極めて低かつた。これに対し、組合中央は、緊急中央執行委員会を開催し、本来組合規約上再提案の可決には四分の三以上の賛成を要するのにこれを無視して(賛成六名、反対五名)再提案を可決し、中央執行委員が大阪工場支部の役員及び組合員を説得した結果、同支部でも六〇パーセントの賛成を得るに至り、同月二八日再提案が可決された。

(一〇) 原告は、昭和四九年春闘の結果について、情宣部と調査部が一緒になつてアンケートを行い、その結果を配布しようとしたところ、春闘に対する組合の取組み、その結果について多数の者が不満を表明していた(全体的評価では、不満が男五一パーセント、女三一パーセント)こともあつて、高崎支部長が、夏期一時金闘争に入りつつあるこの時期に配布すれば組合員を刺激するとの理由でこれを制止した。

(一一) 原告は、昭和四九年七月、再度執行委員に立候補して信任され、上田は、大阪工場支部の支部長に立候補して信任された。

ところで、役員選挙の際、宮崎に代わつて中央書記長に立候補した本多は、組合を分裂さすような者とはあくまで闘う旨表明し、当選を果たしたが、同人は、大阪工場支部の執行委員会にオブザーバーとして参加した際、原告が情宣部長に推されたときに、原告は好ましくない旨発言した。

(一二) 原告は、支部長が高崎より上田に変わつたことで自由に情宣活動を行えるようになつたので、昭和四九年一一月からの年末一時金闘争に関し、経営側のもち出した生産性基準原理を批判するなど教宣面にも重点をおいた組合ニュースを活発に発行するなどした。これに対し、組合中央の情宣部長であり大阪工場支部の副支部長でもあつた川上は、支部執行委員会の席上で、原告の情宣活動を牽制するかの如き発言をした。

(一三) 被告は、昭和四九年一二月一七日、黒田課長を通じて原告に対し、静岡営業所への配転の件を伝えたが、原告はこれを拒否した。大阪工場支部では、同月二〇日、三役会議を開き、原告が配転に応じられない旨表明しており、支部としても情宣活動に障害が生ずるとして原告を守るという結論に異論なく達した。しかし、同月二四日、本多中央書記長、川上副支部長、熊谷支部書記長が、「人事から原告の件について聞いてきたが、配転は仕方がない。」旨表明するに及んで、上田支部長との間で見解の対立をみるに至つたが、本多は上田に対し、「お前はとことんやるつもりか。分裂してもやるつもりか。お前と原告との関係をばらすぞ。」という趣旨の発言をした。同月二六日の朝、川上が上田に対し、支部執行委員会の見解を出すにあたつて広く組合員の意見を聴きたいので職場委員会をもつて欲しい旨提案したので、職場委員会が開催されたが、本多がこの場で原告問題を決めてもらいたい旨発言し、これに呼応して垣本、大伊、真鍋らが発言したが、上田、原告らの反論で流会するに至つた。同日夜、支部執行委員会が開催され、同意のない配転は認めないとして、一応原告を守ることが結論として表明された。昭和五〇年一月七日、その旨の組合ニュースを配布したところ、本多が職場が混乱している旨指摘したが、どの職場にもそのような形跡はなかつた。同月九日、被告は、黒田課長を通じて原告に対し、静岡営業所へ六か月出張してもらいたいと伝えた。

(一四) 原告の問題に関し、支部三役の中で相変わらず意見が分かれている状態であつたので、昭和五〇年一月二九日午後五時ころから開催した支部執行委員会において、翌日職場委員会をもち、職場討議で意見を聴くということが正式に決定され、そのための資料も配布されることとなつた。これに対し、被告は、支部執行委員会のあつた右同日のうち、緒方次長が執行委員をつとめる浜崎に接触し、職場委員会ではしつかり発言しろという趣旨のことを申し向け、暗に翌日開催予定の職場委員会で原告を排除するとの方向づけをするように迫つた。そして、翌日の職場委員会では、高崎議長が原告を退場させたうえ、川上、垣本らが原告の問題をその場で決めようという趣旨の発言をしたこともあつて、最終的には、大阪工場支部としては、原告の不利益とならないように中に入り、被告と賃金、住宅等の条件面にかえて交渉する。但し、原告が最後まで拒否するというのであれば、適当な時期に判断して今後この問題から手を引く旨の結論が出されるに至つた。

なお、被告が右職場委員会の前日に職場委員に接触した件が後日判明して問題視されるようになり、組合において調査委員会を設けて調査したところ、緒方次長が浜崎に接触した前記の件以外にも、黒田課長が職場委員会で議長をつとめる予定の高崎に接触して原告の排除をはたらきかけたのではないか、その他の職場委員にもはたらきかけがあつたのではないかとの疑惑が生じたので、中央執行委員会でも検討するに至つたが、結局、多数決により、被告の職場委員に対する接触は、特にプレッシャー的なかたちではなかつたとの結論が出された。

(一五) ところで、被告と大阪工場支部との折衝に関しては、昭和五〇年一月二二日に午後零時四五分から四五分程度協議がなされ、同月二三日に原告の主張をくんだ要望書を組合が被告に提出し、同月二四日に被告から口頭による回答があり、同年二月七日原告を含めて協議が行われたが平行線のまま推移し、同月一八日被告は原告に対し本件長期出張命令を発令したが、午後からの支部との協議において、協議は打切る、中労協に出す意思はない旨表明した、という程度のものであつた。

(一六) 被告は、昭和五〇年二月二五日を経過しても静岡営業所に赴かなかつた原告に対し、同月二六日実験台や事務机の整理を命じ、更には、木下部長らが処分をほのめかす言動をとつた。そこで、原告は、同月二八日大阪地方裁判所に配転の効力停止の仮処分申請を行つた。

(一七) 原告が、右仮処分申請に先立つて、昭和五〇年二月二六日、中央執行委員会宛に原告の問題で中労協を開催してもらいたい旨要望したので、同委員会では検討の結果中労協の開催を求めることとし、本多中央書記長は、右同日のうちに被告のほうに電話で、原告の問題を次回の中労協の議題としたいので、原告への同月一八日付長期出張命令の発令を一時保留されたい旨申し入れたところ、被告の了承を得られた。

同年三月五日開催の中労協において、被告が組合の原告問題に対する態度を質したところ、組合から、同月一九日の中央執行委員会まで回答を待つて欲しい旨の要請があり、更に同日の中央執行委員会でも結論が出なかつたとして再度その延期要請があつたので、被告はこれを了承した。同月二九日開催の中労協において、組合は、被告の業務命令に不当性はなく不当労働行為にもあたらない、原告の拒否理由に正当性がないとして、業務命令の保留解除はやむを得ないとの見解を表明したので、被告は、同年四月二五日、原告に対し、五月の連休明けまでに静岡営業所へ赴任するように伝えた。同年五月二三日開催の中労協において、被告は組合に対し、本件長期出張命令に応じない原告の懲罰を提案し、同年六月五日、同月一二日、同月二〇日の中労協を経て同年七月一〇日開催の中労協において、組合から原告の懲戒解雇もやむを得ないとの見解の表明を受け、被告は、同年八月二〇日、原告に対して本件解雇をなした。

(一八) なお、昭和五〇年六月二五日の支部役員選挙で、原告は書記長に、上田は支部長に立候補したところ、対立候補として川上が書記長に、垣本が支部長に立候補して、原告及び上田は落選した。

(一九) ところで、本件長期出張命令に業務上の必要性が存することを否定することができないのは、前記二で検討したとおりであるが、化成品部門の技術員の長期出張は原告が初めてであり、また、配転から長期出張に変更された例も、塗料部門も含めて原告が初めてであつた。そして、化成品技術員が化成品営業に配転された例は過去八例あつたが、全て大阪営業課か東京営業課であつて、それ以外の営業所に配転された例はなかつた。

(二〇) 組合は、昭和三三年ころ大阪、東京の各工場労働組合が全化同盟に加盟して以来、単一化を果たした昭和四一年七月以降も全化同盟に加盟しているところ、全化同盟は、その運動方針として共産主義にもとづく階級闘争、労働運動を否定する考えを持ち続けている。

被告は、昭和四四年七月一日、門永を労務担当者として雇用したが、同人は、それまで古河鉱業株式会社の九州地方の炭坑で、労務を担当し、組合による階級闘争、共産主義思想の組合への浸透を批判するビラ作成に関与するなどの経験を有していた。

ところで、門永が被告に入社した当時、猪尾と松岡らが職場新聞ロールを発行し、赤旗を配つたということで問題が生じていたところ、組合は、ロールの発行を分派活動と判断して右二名の者を一年間権利停止処分とし、被告も、同年一〇月、就業時間中無許可で私文書や特定団体の新聞を配布するなどしたとして、右二名の者を譴責処分に付した。

(二一) 組合は、従来より賃上げや一時金問題などでたびたびストライキなどをくり返し、昭和五〇年春闘では、七回にわたるストライキ通告をなし、同年四月上旬から五月中旬まで団体交渉が継続された。

以上のとおり認めることができ、<証拠>のうち右認定に反する部分は、いずれも直ちに措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

3  右認定事実を前提に不当労働行為の成否について検討するに、一般的に、組合運営の具体的なあり方、すすめ方に関して組合員間に考え方の対立がある場合、組合内で議論を尽くし多数決原理に従つてあるべき方向性を決めてゆくのが組合民主主義の本旨であるところ、使用者が、その一方に加担し、或いは、他方に不利益を課してその組合活動を封じ、組合を使用者にとつて好ましい方向にすすませようとするのは、労働組合法七条三号にいう労働組合の運営に対する介入に該当するものというべきである。

本件においては、原告、上田らと、組合の中央執行委員ないしは大阪工場支部の一部役員との間に組合運営の具体的なあり方について考え方の対立がしばしば生じていたものとうかがわれるところ、とくに、昭和四八年一月の爆発事故後は、従業員の雇用確保などに関して、原告らは大阪工場の全面再建による配転を伴わない雇用の確保を目指し、さしあたり被告から配転の内示を受けた者についても、応じられない者は断固として組合として守るべきであるとの考えをもつて配転予定者宅の自宅訪問活動などを実施しており、被告との協議により配転もやむなしとの態度をとつた組合の中央執行部は配転拒否者らを守る姿勢にも欠けているとして、これに批判的であつたのに対し、宮崎中央書記長らは、原告らの活動を組合の方針に反するものとして位置づけてこれを嫌悪しており、顕著な対立関係がみられるに至つたが、それ以降も、日本ゼオンへの出向者引き上げ問題、昭和四九年度時間短縮問題、昭和四九年度の春闘に対する評価などの諸問題に関しても、見解や評価に対立をきたしていたものと推認することができる。ところで、以下の事実からすると、被告は、原告、上田らと組合の中央執行委員ないしは大阪工場支部の一部組合員との間の右対立関係を基本的には知つていたものと推認するのが相当である。即ち、前記認定のとおり、被告が従業員の茨城工場配転に関し組合の了承を得た後の昭和四八年一〇月末の朝礼において、大阪工場の緒方次長が原告らの配転予定者自宅訪問活動を批判する言動をしており、被告の労務担当人事部副部長の門永も緒方次長の報告を受けて原告らの右活動を知つていたこと、大阪工場支部では、爆発事故後職場委員会において、大阪工場で全員が雇用されるように転勤を伴う再建には反対である決議がなされ、日本ゼオンへの出向者引き上げ問題では支部執行委員会で出向者の総引き上げを決議し、昭和四九年度時間短縮問題では、組合員投票の結果、大阪工場支部では中央執行委員会の提案を他支部と比べ賛成率が低率のまま否決したことがあり、いずれも後日の中央執行委員会の立場、組合全体の決議とは異なる立場をとつていたものであるところ、右諸問題に関しては、その事柄の性質上、従業員がどのような立場に立つているのか経営者としては当然に関心を示し注目していると思われる事項であること、被告の労務の事実上の責任者である門永は、共産主義思想の組合への浸透を警戒する立場に立つているところ、かつて職場新聞ロールや赤旗などを配布したとして譴責処分に付した猪尾、松岡が原告らとともに茨城工場配転予定者宅訪問活動をしていたことなどから原告を共産党員ないしはその同調者と目していたものであり、全化同盟の運動方針に従つている中央執行委員などとの対立関係には、その観点から関心をもつていたものと推認できること、などからすると、前記のとおり推認するのが相当である。

次に、原告は、昭和四六年七月から青婦部部長として、昭和四七年七月からは職場委員として諸活動を行い、昭和四八年七月執行委員に選任されてからは情宣部長として情宣活動をするなど、組合の中央執行委員ないしは大阪工場支部の一部役員らとしばしば対立しながらも、活発な組合活動を行つてきたものであることは、前記認定のとおりであるところ、青婦部部長、職場委員(兼大会代議員)、支部執行委員、情宣部長という組合の役職が被告との労使交渉に関与する役職でないことは当事者間に争いがないが、<証拠>を総合すれば、組合は、大阪工場支部青婦部部長として原告の氏名を記載した昭和四六年度組合役員名簿を被告に手渡していること、被告は、組合のビラやニュースなどを以前からかなりの程度収集してきたものと認められるところ、昭和四六年一〇月一九日付の組合ニュースには青婦部部長として原告の氏名を記載した文章が登載されており、被告が昭和四六年一〇月に配布することを制止した前記2項(二)認定のアンケート用紙にも青婦部部長として原告の氏名が記載され、更には、昭和四九年度時間短縮案が再提案され可決されたことを報ずる昭和四九年四月一五日付中央情宣ニュースに大阪工場支部情宣部長として原告の氏名が記載されていること、原告は全日塗労働組合協議会の情宣部会に組合を代表して出席する際、所定の離席票にその目的・理由を明記して被告に届出ていることなどの事実が認められ、これに、原告が情宣部長に就任した直後から組合ニュースの定例化がはかられ、被告に対する爆発事故の責任の追及など被告の関心をひいてしかるべき内容の情宣活動が活発に展開されたという前記認定事実を考え合わせると、被告は、少なくとも、原告が青婦部部長に就任し、執行委員に選任(なお、原告が執行委員に信任されたことについて、被告が知つていたことは、当事者間に争いがない。)されてからは情宣部長に就任し、情宣活動を活発に行つていたことを知つていたものと推認するのが相当である。

そして、右に推認した事実を前提にして検討すると、被告の職制らが、昭和四九年一二月二四日に本多中央書記長らに接触して原告の配転問題についての業務上の必要性を説明し、昭和五〇年一月二九日に翌日開催される職場委員会の職場委員に接触したのは、原告らと組合運営のあり方について考え方に対立関係にある中央執行委員や支部役員の一部らにはたらきかけて、情宣活動や茨城工場配転予定者宅訪問活動など被告にとつて再建計画を妨害するに等しい組合活動をしてきたと映る原告を排除しようとしたからにほかならないものと考えられる。原告に対して静岡営業所への配転の件が伝えられた時期は、原告らと対立関係にあつた高崎に代わり上田が支部長に就任し、原告が再び活発な情宣活動を自由に展開し始め、折りしも昭和四九年度の年末一時金闘争に関して、経営側の生産性基準原理を批判するなどより一層活発に原告が情宣活動を行つていた時期であり、右時期から判断しても、爆発事故後不況が長びく中、危機感を深めていたと思われる被告が、原告を大阪工場から排除しようとしたものと推認するのが相当である。

以上検討してきたところによれば、配転にひき続いて被告がなした原告に対する本件長期出張命令の発令及び右命令に従わないことを理由とする本件解雇は、原告を大阪工場支部から事実上排除してその組合活動を封じ、組合を被告にとつて好ましい方向にすすませようとした行為として、労働組合法七条三号にいう労働組合の運営に対する介入行為に該当するというほかない。

(本件長期出張命令は、前記二で検討したとおり、一応業務上の必要性が認められるものではあるが、静岡地区を開発重点地区として選定したこと、技術員をセールスエンジニアとして同地区に派遣することに疑問が残るものである以上、右業務命令は、むしろ、右不当労働行為意思にもとづいて発せられたものとみるのが相当である。)

四そこで、請求原因4(一)(賃金及び一時金)について検討するに、原告の主張中被告の自陳する別紙[B]第一表ないし第五表に反する点は、これを認めるに足りる証拠がなく、結局、弁論の全趣旨により被告の自陳する限度でこれを認めることができる。

五よつて、原告は、被告に対し、雇用契約にもとづき、原告が被告の従業員たる地位にあることの確認並びに昭和五〇年八月二一日以降昭和六一年八月三一日までの賃金・一時金の合計二九一三万九五六四円及び昭和六一年九月一日以降の賃金として毎月二五日限り一か月二三万九二三一円の割合による金員の支払いを求める権利を有する。

第二不法行為にもとづく損害賠償請求部分について

一請求原因3(不法行為)に関しては、第一で詳細に検討したところによれば、被告のなした本件解雇は、原告の積極的な組合活動を嫌悪してなされた点において労働組合法七条三号に該当する不当労働行為と認められ、結局、故意による不法行為により原告の生活的利益を侵害したものというほかない。

二そこで、同4(二)(慰謝料及び弁護士費用)について検討するに、原告は、昭和五〇年八月二一日以降職場から排除され、仮処分申請及び本件訴訟を提起し維持しなければならなかつたことについて、相当な精神的苦痛を重ねてきていることは推察するに難くなく、その苦痛は、本件訴訟において原告の従業員たる地位の確認主張が認容され、賃金相当額の支払いを受けたとしても完全に治ゆされるものでは到底ないから、前記諸事情を考慮して慰謝料は一〇〇万円とするのが相当である。

また、弁護士費用に関しては、本件訴訟が昭和五四年一二月一二日に提起された長期の訴訟であること、その立証活動も決して容易とはいえないことなど諸事情を考え合わせると、被告の不法行為と相当因果関係の範囲内にある弁護士費用は一〇〇万円と認めるのが相当である。

三よつて、原告は、被告に対し、不法行為にもとづく損害賠償として慰謝料及び弁護士費用の合計二〇〇万円の支払いを求める権利を有する。

第三結論

以上によれば、原告の本訴請求は、そのうち、原告が被告に対し、雇用契約にもとづき原告が被告の従業員たる地位にあることの確認並びに昭和五〇年八月二一日以降昭和六一年八月三一日までの賃金・一時金の合計二九一三万九五六四円及び昭和六一年九月一日以降の賃金として毎月二五日限り一か月二三万九二三一円の割合による金員の支払い、不法行為にもとづく損害賠償として二〇〇万円の支払いを求める限度で理由があるからこの限度でこれを認容し、その余の請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担については民訴法八九条、九二条を適用し、金員の支払いを命ずる部分については申立てにより同法一九六条一項を適用して仮執行宣言を付して、主文のとおり判決することとする。

(裁判長裁判官中田耕三 裁判官木村修治は退官につき、裁判官波床昌則は転官につき署名捺印することができない。裁判長裁判官中田耕三)

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